いい研究とはなにか、っていう問いに対する答えが、当時のわたしには必要だった。
その問いに向き合うことが必要なわけじゃなかった。考え抜くことが必要なわけでもなかった。欲しかったのは、とにかく結論。嘘をつくのが苦手なわたしがいちおう、外へ向けて気兼ねなく語れる程度の説得力がある建前。
自分で出した結論を、わたしは最初から信じる気がなかった。だって、それは建前だから。研究に意味を求めてくるまわりのだれかを、どうにか言いくるめるためだけに立てる作戦だから。いい研究をせよと言ってくるほかの研究者たちにいちいちおびえなくて済むための、心のよりどころがつくれればそれでよかった。
そしてそれなら。自分の心を守るための方便なら、もしかしたら導き出せるかもしれないとわたしは思った。
そのときのわたしの考えは、以前この日記に書いた覚えがある。とにかくわたしは悩みながらも、これまでの経験をもとにして、自分のためだけの基準をつくった。具体的な答えは、べつにどうでもいい。とにかく、ある程度納得のいく答えを用意できたことで、わたしは先生たちの影におびえなくてよくなった。
それが、いまのわたしにどう影響したか。
「いい研究とは簡単な研究のことである」――わたしの出した答えはそれだった。簡単な研究は、簡単だからこそ、ほかの多くの研究者に理解してもらえる。たくさんの研究者に理解してもらえば、きっとそれだけ意味があるというものだ。反面、むずかしい研究は、ごく一部のコミュニティにしか理解してもらえない。最先端に追いつくってだけのために、すでに多大な労力が必要なものなんて、きっとほとんどだれもやらない。
そういうのが一応、わたしの主張の根拠だった。外向きの方便。この論理に穴があることは、ちょっと考えればすぐわかる。より多くの研究者に理解されたからといって、なにが起こると言うのか。でも世の中的には理論研究にも意味があるっていうことになってるから、外向きにはこれで十分なわけだ。
この考えはあくまで方便。最初から建前だし、建前は本音にはならない。わたしはこれを信じないし、いい研究の定義について真面目に考えたいなら、こんな薄っぺらな論理は全部忘れてしまうべき。そもそもの最初から、目の前の相手を騙すためだけに作った論理なんだから、自分がそれに溺れてしまうことなどあってはならない。本音では、引き続き、どんな研究にも意味なんて認めちゃいけない。
そういうふうに、しばらくは思い続けていられたわけだけれど。