ファンタジーの正当化 ③

 ファンタジー世界の多くには強すぎる人間がいる。強すぎて、真面目に戦えば戦う前に相手を屠ってしまえるとか国を滅ぼしてしまえるとか、そういうことが起こる。その結果作者は、各々が持てる才能をいかんなく発揮すれば簡単に目標は達成されてしまうだろう、という問題に向き合わなければならなくなる。

 

 それと向き合うための方法はいくつかあるが、代表的なものはいわゆる、火事場の馬鹿力的な展開だろう。キャラクターにはたしかに強力な能力を持たせるが、それは状況が整わないと発揮できないものだと定義するのだ。そしてその状況を、かれらが絶体絶命のピンチに陥ることによってしか満たされえないものである、というふうに話を持っていくわけだ。王道の展開であり、そして王道であるということはそれだけ信頼できる手段だということだ。

 

 とにかくそうすればすくなくとも、主人公がバカだとか、手を抜いていたとか思われることはなくなる。目標をド派手に達成するだけの力がありながらそうできずにいたのはあくまで状況が整わなかったからだ、自分の裡に秘めた能力にそれまでまったく気づいていなかったからだ、というふうに、原因を外部要因に求めることができる。こうして物語は正当化され、面白く消費されることになる。

 

 とはいえそういう展開は、とてつもなくご都合主義的だ。これまでできなかったことが窮地になって突然可能になるというのはいささか話ができすぎている。そうなるように作っているのだからそれはそうだろうと言われればそれまでだ。思うにファンタジーには相当のご都合主義を許容する文化というか、暗黙の諒解がある。だがそれでも、あまりに展開にご都合が過ぎれば、読者としては興醒めしてしまうことがあるのもまた事実である。

 

 そうしたご都合主義を正当化する要素は、思うにひとつしかない。それがご都合だと知ってなお、その展開を面白いと感じるかどうかだ。それは非常に感覚的なものであり、受け取り手によって個人差のあるものであり、客観的な基準のありえないものである(もっとも、たとえばサイエンス・フィクションの主張する「科学」という根拠が感覚的なものでないかと言われれば、必ずしも否定はできないのだが)。

 

 ファンタジーの展開を正当化する要素は理屈ではない。だから熱心な読者はみな(あるいはアンチはみな)、ある展開を正当だと感じるかどうかについて、延々と実りのない議論を続ける羽目になる。そしてなにかを正当の方向に後押しするのがまた、王道というものの波及力でもある。