仮想空間 ③

 仮想空間という舞台の特殊性を語るうえで、絶対に外せないテーマがひとつある。わたしたちが現実世界と呼ぶこの世界だって実は、どこかの上位存在にシミュレートされた仮想空間なのではないか、という問題である。

 

 これは古典的な問いであり、もちろん結論は出ない。古典的な問いとは往々にして結論が出ないものである。とはいえそういうものは同時にたくさん議論されつくした問いでもあるわけで、作家やそうでない一般人がそれについてどう考えているか、わたしたちはよく知っている。言い換えれば、結論としてイエスとノー以外のものを許すのであれば、それらしき共通認識はすでに構築されている。

 

 その結論とはだいたいこんなところだろう――この世界はシミュレートされたものかもしれないし、そうでないかもしれない。とはいえ、そうでないことをわたしたちは薄々ながら願っているし、そうでないと信じることが無根拠な希望的観測ではないとも思っているし、そうでないと信じてもよいかもしれないとすら思っている。

 

 肝心の結論に関しては、実は肝心ではないというのが結論である。この世界が箱庭でもそうでなくても、上位存在が存在してかつなんらかの気まぐれを起こさない限り、そう知るための手段はなにひとつないのだから。あるいは、自分自身に自由意志があるかどうかを疑ったところでなににもならないのと同じように、この世界を本物だと信じても信じなくても、わたしたちに取りうる行動はなにひとつ変わらないのだから。

 

 サイエンス・フィクションでは、仮想世界の住人は真実を知っていることが多い。知らない作品もあるが、知っている作品のほうをわたしはよく見る。というわけで、わたしたちが現実と呼ぶものがかりに仮想世界であったとしても、それはサイエンス・フィクションの多数派が描いている仮想世界ではないわけだ。だから仮想世界ものを読んで、ここで描かれているのがじつはわたしたちの世界そのものなのかもしれない、と闇雲に考えられるかと言えば、けっしてそんなことはないわけだ。

 

 考えてみれば、そうなるのは自然ではある。原則:現実世界でできることには余計な設定を加えず、単に現実世界でやればよい。上位世界の存在を知らない仮想世界がわたしたちと似たような生活をしていたのであれば、それが現実世界と区別がつかない以上、現実世界であるということにしてしまって構わない。

 

 そして逆に、仮想世界とはきっと現実世界とは違い、世界の成り立ちについての確信が持てる空間なのだ。そこが本物の世界ではないとみなが知っている、そういう環境こそがきっと、仮想世界という設定の核心でもあるのだろう。