村 ①

 サイエンス・フィクションということばを文字通りにとらえれば、それはサイエンスを題材にしたフィクションである。サイエンスであるからにはなんらかの科学が描かれている必要があり、そしてそれがフィクションであるためには、描かれる科学はなんらかの意味で、現代科学と異なるものでなければならない。

 

 普通に考えれば、題材となるのは未来の科学である。そうでなければ、架空の科学体系か。それらの科学が現代科学の延長線上にあるにせよないにせよ、またはある未来において現実世界が描かれているような変貌を遂げると考えることが可能にせよ不可能にせよ、描かれる世界は現代の常識から見て、進んだ世界である、と考えるのが自然だ。そうでなければ――つまり、現代のサイエンスのギミックをフィクションに仕立て上げる、という意味でサイエンス・フィクションという概念を考えるのならば――、主題は科学ではなく、現代社会になってしまうだろう。

 

 さて。だが実際にサイエンス・フィクションを読んでいると、実態は必ずしもそうとは限らない、ということが分かってくる。というのも、このジャンルは進んだ世界だけでなく、現代よりはるかに遅れた世界を扱うことがあるのである。いや、ことがある、というレベルではない。舞台はかなりの割合で、素朴で牧歌的な寒村である。

 

 そういう社会ではしばしば、厳密な意味でのサイエンス・フィクションは成立しない。当たり前だ。人類史でも、本格的なサイエンスの誕生には中世の夜明けを待たなければならない。村の社会はサイエンスという枠組みを持っておらず、動物を狩ったり農業をしたりして原始的に暮らしている。そして寄合の席に集まり、語り部が不思議な物語を交わす。

 

 村には不思議な現象が起こる。それは一度きりであることもあるし、恒久的に続いていることもあるが、後者の場合はしばしば、その超常現象そのものが村の生活様式に組み込まれている。それらはよく語り部によって語られ、口承というまったく信頼のおけない伝承方法によって伝達され、嘘か真か分からないあいまいさの中に記述される。

 

 それらの現象を現代人が見たならば、その理屈を科学で解明しようとするだろう。あるいはそれを利用する技術を編み出そうとするだろう。だが村にはサイエンスがなく、かりにあったとして、サイエンスを発展させるための十分な人員がない。しかるに不思議は単なる迷信として処理される。ニュートン以前にもリンゴは木から落ちていたように、それらの現象はサイエンスによって解釈可能なものかもしれないが、登場人物たちがそうしないのだから、サイエンスにはならない。