科学の定義 ⑧

 今までの話をまとめよう。

 

 科学と魔法はどちらも技術の体系である。それらは同じ社会のなかに同居できないため、科学世界と魔法世界は分かれている。

 

 分かれているが比較は可能だ。技術であるという点でふたつは同じだが方向性が若干異なり、科学は魔法よりも大規模になりうる。便利にもなりうる。そしてそうあるがゆえに膨大である。一般個人にできることはただ、パッケージ化された技術を用いるだけ。その技術を知り、改造し、望みの結果を得るにはしばしば、相当の知識と設備と技術と金銭が必要になる。

 

 そのかわり魔法は力そのものがひじょうに属人的である。小規模なことであれば、一般人ひとりの力だけでじゅうぶんな結果を得ることができる。大規模なことはさすがに一般人の手には余るが、強大な魔法使いであれば、やはりひとりでやってしまえる。それに必要なのは魔力の強さであって、膨大な作業ではない。

 

 では、科学の話に戻ろう。

 

 サイエンス・フィクションの中では、都市全体を丸ごと包み込む空調設備とか、景色を見るだけで背景情報が表示される眼鏡だとか、広大な居住空間を持った恒星間亜高速移動宇宙船だとか、そういうとてつもないシステムが出てくる。あるいは並行世界と交信できる機械だとか、生命サイクルそのもののシミュレーションだとか、極度に引き延ばされた時空だとか、人間の意識を取り込んで自己増殖する情報網だとか、現代科学の延長線上にはあまりありそうもない技術もある。

 

 それらはもう、わたしたちの知っている科学ではない。それらはときに実現不能とも思われる。

 

 だがそれらは科学である。魔法やほかのなにかではない。

 

 それはなぜだろうか。

 

 規模の大きさ、という条件は満たしている。それらのシステムや現象は、ひとりの人間によって構築されうるようなものでは絶対にない。システムのすべてを理解している人間はいないだろう。

 

 だから、科学であっても不思議ではない。すくなくとも、魔法ではない。

 

 だが同時に、それらはただ、莫大な知識と作業の積み重ねの上に成り立つ巨大なシステムである、というだけである。現代科学とかけ離れた地に足のつかない技術をそれでも科学と呼称するための条件としては、いささか弱すぎるような気がしないでもない。

 

 だが反例は挙げられるだろうか。神をはじめとした強大な存在によるものではない巨大な構築物であり、その作成には莫大な作業を必要とするものが、科学と呼ばれない例はあるだろうか?