物語の起承転結のうち、いちばん本質的なのはどこだろうか。この問いにはさまざまな答えがあるし、どの答えにもある程度納得のいく理由をつけることができる。けれど純粋な分量の話に限って言えば、いちばん文字が多いのは間違いなく「承」の部分だろう。

 

 物語は「承」で発展する。「起」でとりあえず大量に投げておいた謎の大部分を回収し、特定の謎の答えを回収しないということによって物語の方向性を明らかにする。いくつかの解決可能な事件が起こって主人公はそれを解決し、またいくつかの取り返しのつかない状況が、登場人物にとって可能な行動空間を規定していく。

 

 読者のほうは、このころにはすでに、作中の世界がどう成り立っているのかをあらかた理解している。もっともそれは根源的な理解ではないかもしれない。話によっては、世界の根幹がどうなっているのかということこそが物語の主題であり、それらが明らかにされるのはもっと後、「転」や「結」でなければならない。しかしながらその場合も、世界は表面的には理解可能な構造をとっており、作中にしか存在しないいくつかの奇妙な概念を、読者はすでに自然に受け止めていることが期待される。

 

 では作者のほうはと言えば、正確なところは分からない。物語の各段階で作者が世界をどれほど理解しているのか、ということを正確かつ統計的に把握できるほど、わたしには話を書いた経験がない。けれどおそらく、作者の多くは、展開を完璧に把握したうえで書いているというわけではないはずだ。というのも、登場人物が勝手に動き出して結末が変わったとか、気の向いた順に書き進めていたら話が全然つながらなくなったとか、作者がそういう話をしているのをよく耳にするからである。

 

 その観点から言えば、「承」とはおそらく作者にとって、もっとも予測しにくい部分であろう。「承」に要求されるのは物語を膨らませることであって、それは各部分に課される要請の中でもっともあいまいな要請である。「起」には世界設定の導入が必要で、要求されるのはいかに読者を飽きさせず、説明くさくせずに世界を説明するかである。「転」はクライマックスだから、最初に決めておくのが良いとされている。「結」は物語全体を受けての結論なのでこれもまた予測不能ではあるが、分量が少ないからまだ手に負える。だが「承」は、割となにを書いてもいいわりに、分量がやたら多い。

 

 「承」はきっと、作者に世界を理解させてくれる。「転」には直接関係のないディテールを強制的に記述させられることで、世界への解像度はきっと高まる。そしてきっと、一見すっ飛ばせるようにも見える「承」が話の大部分を占めるのは、解像度というものの重要さによるものである。