暗記と背徳感

 なにかの役に立てるためにものを覚えるのではなく、暗記することそれ自身が目的になっているとき、暗記とは楽しい行動である。マニアックすぎる英単語や現地人しか知らない街の名前など、こんなものを覚えたところできっとなんの足しにもならないと思いながらそれでも無駄な知識を頭に叩き込んでいる瞬間には、もはや背徳的とすらも言える心地よさがある。

 

 暗記することそのものを目的として獲得した知識は、それそのものが自分を特徴づけるステータスになりうる。というのも、わざわざ覚えようとしなければけっして知らないはずのことを知っているという事実は、贅沢にもそれを覚えようとしたことがあるということの確固たる証明になるからだ。有用な知識なら、それを獲得する機会はたくさんある――たとえば、自分の研究分野の専門知識はみな持っているし、特定の国の住宅事情に詳しいなら、その国に住んでいたことがあるのだろうと推測が付く――けれど、無駄な知識を得るには、野心的にもそれそのものを獲得しようという、ピンポイントでどうしようもないこだわりが不可欠なのだ。

 

 かくしてわたしたちは、無駄な知識に憧れる。無駄な知識を持っている人間を、それが無駄であればあるほどに尊敬する。無駄すぎる教養では当然食べていくことなどできないから、わたしたちの尊敬対象はしばしば、普通の質素な生活をしている。才能の無駄遣い、すくなくとも自分が稼ぐことにはつながらない類の。

 

 かれらは質素でなければならない。百歩譲っても、その知識を生業にしていてはならない。生業にできるのであれば、それで食べていけるのであれば、きっとその知識は無駄ではないのだ。有用な知識は、有用な知識を持つ人間は、べつに尊敬すべき相手ではないのだ。

 

 そしてだからこそ逆説的に、無駄な知識を持っているという事実は、それなりに役に立ってしまう。食い扶持にはならなくとも、まわりの尊敬を集めることができるという意味で。

 

 なんでもいいから尊敬を集めたい。それはだれもが願うことではあるだろうが、このコンテンツ過多の時代、なかなか上手くいくことではない。尊敬を集めるために獲得してひけらかす知識は、それが無駄でさえあればなんでもいい。けれど尊敬を集められるほどの知識は、無駄でさえあればなんでもいいというくらいの熱量で集められるようなものでは、おそらくない。

 

 暗記は基本的に苦しいものである。だがときおり、楽しくて仕方のないケースが存在する。現代社会において、過度の暗記は尊敬とセットにされがちではあるが、わたしたちはきっと原点に立ち返るべきである。脳のリソースを無駄なことに消費してやったという、明確な背徳感へと。