暗記の習慣

 小学生という、いまよりはるかにたくさんのことを覚えていかなければならなかった年代において、暗記の好きでなかったわたしは困っていた。月並みな表現だが、生物も化学も地理も公民も、すべてが算数のような必然性を、あるいは完璧に編纂された歴史のような物語性を、そのうちに宿していてほしかった。ただただ丸暗記する以外にそれを覚える方法がなく、そしてただそのひとつの事項を暗記したという事実以外になんの洞察ももたらしてくれない、なんらかのランキングや単語や固有名詞は、率直に言って嫌いだった。

 

 中学になると英語が増えた。単語をはじめとして、ほかにも英文法、とくに動詞や前置詞の語法がわたしを苦しめた。いや、苦しめたという表現は的確ではない。自分が丸暗記を嫌っているという自己認識と、だが英語にまつわるその手の事項が丸暗記以外の何物でもないという理解を組合わせて、わたしは英語からの戦略的撤退を選んだのだから。

 

 いまではすこし、わたしも丸くなった。若年期に学んだそれらの事項を丸暗記と呼ぶことに、抵抗をおぼえるようになったのだ。というのも、ただ覚える以外のなんの洞察ももたらしてくれないようなものは、この世にはそれほど存在しないからだ。いや、存在はするだろうが、義務教育で教わることのなかにはきっと、すくない。

 

 植物の冬越し。生物の分類。地層。都市と産業。議会制と法制度。英単語。それらはむかしのある時期、単なる丸暗記でしかなかった。おそらくそうあることが想定されていた、そういう理解でカリキュラムは組まれていた。だがそれらにはたぶん、小学生にはきっと理解できないながらも、いちいちなんらかの意味、そして背景がある。にもかかわらずそこに有機的なつながりを見出せずじまいなのは――大人になったいまでも、暗記より上のレベルへとその知識を昇華できないのは――つまり、わたしが無教養だということ。

 

 教養とは人生のオプションである。ある種のことがらについて義務教育以上のことをほとんどなにも知らなくても、ほかのことがらについて詳しければ、それで許される。だからむかし丸暗記だったものがいまでも丸暗記だったとして、それはべつに恥ずべきことではない。逆に言えば、むかし丸暗記したものがいまになって丸暗記ではなくなったとしたら、それは誇ってよいことである。

 

 丸暗記は教養の種になりうる。だが大人になったいま、世界はそれを求めてこない。わたしたちに毎週の小テストはないし、カラーシートを使って参考書をなぞる習慣はない。そういう勉強方法は高校で卒業したし、そういうものをきっと、大人は真の意味での勉強とは呼ばない。その徒労感を知っているから。

 

 けれどもたまには、そういう高校生のような勉強をしてもいいのかもしれない。それがきっと、教養へとつながることであれば。