ヒロイン案 ③

「なにしてるの」電子音のような平坦な声で、ぼくに向かって彼女は言った。青い髪がまっすぐに垂れかかり、机にくっきりと影を落としていた。予想していなかった事態にぼくは驚いて、思わず、「えおあ?」とことばにならない声を上げる。

 

「なに……って、…………授業に出てるんだけど」ぼくはなんとかそう返す。暑さからか、それが答えになっていないことに気づくのに少し遅れて、ぼくはそれからあわてて、彼女がいったいなにを聞こうとしていたのかについて考え直す。けれど答えは、彼女のことばには間に合わない。

 

「違う」と彼女は否定する。なにが違うのか、という疑問がぼくの頭をかすめるが、それ以上の思考を彼女は許さない。「知りたいんでしょ、どうせ」彼女はぼくの指からペンを取り返すと、それがさも当然のことであるかのように気だるげに言う。「わたしの正体。いったいなんのためにここに来て、どうして途中で帰るのか。それと、どうしていつも違う格好をしているのか」

 

 なるほど、やっぱり彼女は同一人物だったのか。確信するにはまだ至っていなかった疑問がひとつ解け、小さいが確かな満足感がぼくの胸に芽生える。「うん」喜びとともにぼくは返す。「良ければ、教えてくれるかな。きみの……その、正体とか目的とかについて」そしてふと、くだらない考えがぼくの脳をかすめる。こうなると分かっていたなら、もうちょっとマシな服を着てきたのに。

 

 だがとにかくこれはチャンスであり、いったいなんのチャンスなのかはぼく自身にも分からないとはいえ、なんらかの始まりには違いない。もっともそれは恋ではない――毎週違う格好であらわれ、真面目に話を聞いていたかと思えば突然いなくなる奇妙な女性とのロマンスを、そういえばぼくは想像したことがなかった。想像していたらたぶん、ぼくは口が利けなくなっていただろう。

 

 彼女は黒板へと振り返り、こちらを遠巻きに眺めている教授を一瞥する。いつの間にかぼそぼそ声を中断していた教授は、彼自身の授業の要領の得なさから連想されるように、ここでなにが起こっているのかをよく理解していなかった。彼女はくっと踵を返し、まっすぐに扉のほうへと歩き出した。思わずぼくは腕時計を確認しかける。彼女が出ていくとき、いつもそうしていたように。

 

 扉のそばで、彼女は振り返る。そのとき初めてぼくは彼女を正面から見た。これまでは斜め後ろから眺めているだけだったし、さっきもぼくは狼狽していたから、ろくに顔も見たことがなかったのだ。まず目に入る青色の髪の毛はふたつに分けられ、白い額が見える。やや丸みを帯びた顔に小ぶりな鼻と口がそこに締まりを与えているが、そこからはなんの感情も読み取れない。おそらくカラーコンタクトだろう、髪と同じ青色の目はどこか遠くを見ているようで、瞳の奥に隠れているものの大きさについて、ぼくはまるで判断がつかない。

 

 まだ困惑しているぼくを彼女はちらりと見る。この蒸し暑さの中にあって、一筋の汗も流れない、整った顔。彼女は口を開き、大声でも小声でもない、きわめて自然な口調で言う。「行かないの?」