ヒロイン案 ②

 彼女はすっと立ち上がった。教授のボソボソ声はいつものように断ち切られ、蒸し暑さの中に消えていく。ぼくは時計を見て、なんの足しにもならないデータをノートの隅に書きつける。十三時五十二分二十六秒。今日は少し早かった、計測開始以後三番目の早さだ。

 

 ぼんやりとぼくは彼女を見届ける。教授が前でなにやら言っているが、そもそも授業なんて最初から聞いていなかったから、そのことばが授業の続きなのかそれとも彼女に向けたことばなのか判然としないし、興味もない。彼女が出ていった時点でこの授業に意味はない。なのにどうしてぼくは最後までこのクソ暑い教室に居座っているつもりなのかは、とうのぼく自身もよく分からない。

 

 それにしても暑いな、とペンで頭を掻くと、ふと慣れない感触を右手に感じる。見ると、握られているのは見知らぬペン。手先を見ないでペン回しをする彼女の特技を思い出す。あっ。

 

 これはあのペンだ。でも、なぜ?

 

 ぼくは疑問に思い、記憶を探る。が、すぐにそれが無駄な試みだと気づく。まるで起き抜けの夢のように、直前のできごとの痕跡は跡形もなく消えていて、教授が教室に入ってきた後のことはなにも思い出せない。それでも必死に考え続けると、ぼくの脳は勝手に、ありもしないだろう記憶をでっちあげ始める。

 

 直前、彼女は珍しくペン回しに失敗した。それは教室を盛大に飛び、ぼくのほうに飛んできた。ぼーっとしていたぼくは当然それをよけられず、ましてやキャッチするなど言わずもがなで、結果としてペンはまっすぐにぼくの頬に突き刺さった。よけもしなかったにもかかわらず、ぼくの脳にはペンの描いた綺麗な放物線の記憶が捏造されており、「彼女レベルになると、飛んでくるペンの姿勢すら美しいんだなぁ」などと、わけのわからないことを考えた記憶すらあるような気がしてくる。そういえば、さっきからなんだか頬のあたりが痛い気がする。今ではもうそれほど痛くないが、当たったときはたしか大声で叫んだはずだけどいや落ち着け、それだったらさすがにぼくも我に返っているはずでさっきまでぼーっとしていたことの説明がつかないからたぶん直接は当たらなかったのだろうというか今朝生協でペンを買った気がするからこれってそもそもぼくのじゃないか?

 

 この疑問にはもちろん結論は出ない。わざわざ思い出さねばならなかった短期記憶ほど信頼のおけないものはなく、そもそもこんな疑問、解決する意味も理由もない。だがとにかくぼくの頭はそんなどうしようもない疑問で占められており、まわりで起こっていることに対する注意がこれまでにもましておろそかになっていた。だからぼくは、声をかけられるまで、彼女が教室を出る代わりにまっすぐにぼくのほうに向かってきていたことに気づかなかった。