文体老人

文体を練習するにはどうすればいいか、という質問を最近よく受ける。まったくナンセンスな問いだ、としか言いようがない。

 

なにに影響されたのかは知らないが、近ごろのやつは、文体というものを特徴量の集合かなにかだと勘違いしているようだ。練習方法を聞いてくるやつらは決まって、やれ一文の長さがどうだとか改行の頻度がどうだとか、定量的な話ばかり振ってくる。機械ならあるいは、そういうふうな理解を試みるのも分からんではない。だがわたしたちは人間であり、そもそもの最初から、文章とは人間のためのものなのだ。人間はけっして、パラメータを気にして文章を書かない。

 

わたしは決まってこう答える。「文章のあらゆるパラメータはあくまで文章の副産物だ。それを目標にして文章を書こうとしてはならない」と。求めていた答えとは違ったのだろう、たいていの場合、質問主は納得のいかない表情を浮かべて帰っていく。わたしはきっと、やつらにとっていい教師ではないのだろう。だが長年の経験からして、文章の特徴量を気にしているやつが、いい文章を提出してきた試しなどないのだ。

 

文体の練習。わたしなら、たとえばこんなふうに練習するだろう:

 

まず、語り手を思い浮かべる。知人でも小説のキャラクターでも、だれでも構わない。とにかく、ステレオタイプな性格のだれかが語っているように、書く。

 

今回の場合、わたしは老いた教授を想像している。昔気質の古い人間で、自分が古い人間であることを薄々自覚しながらも、それを頑なに認めようとはしない。自分の人生経験に自信を持っており、自分の経験談がだれにとっても有益な、普遍的なアドバイスになると信じて疑わない。そういう人物になったつもりで、この文章を書いている。

 

そうすれば自然と、その人物が書きそうなことが書けてくる。句読点の頻度も改行のやり方も、自然と定まってくる。すべてはその人物を想像するところから、話がはじまる。

 

文体というのはそういうものだ。この文章は説教臭い。それはわたしが、説教臭い人物を想像して書いているからだ。それだけで、説教臭い文体が出来上がる。そして文体という表現技法の真に目指すべきところは、説教臭く聞こえるべきものを説教臭く書けることだ。むしろわたしから逆に聞きたいのだが、表現すべきものを直接表現しようとすればうまくいくのに、どうしてやつらは文章の特徴量などというまわりくどいものを経由しようとするのだ?

 

これから言うことをよく覚えておいてほしい。大切なことだ。文体とはあくまで手法であって、目的ではない。本質を見誤るな。百歩譲って、パラメータから文体を導き出せたとしても、それを使うことじたいを目標にしてはならない。もっとも、それを使ってなにができるかを考える必要もない。なぜなら文体とは、あくまで表現の必要性から生み出されるものだからだ。