セルフ・エコーチェンバー ①

文章とはだれに向けて書くものか、という問いに明確な答えはないが、だれが読んでいるのかにはひとつ、明確な事実がある。それはおよそひとの手によるすべてのものにあてはまる性質で、作者性を帯びたひとはだれしも、決して逃れることのできない自然の摂理だ。そう。作者は文章のなんであるかを知っている。文章における最初の読者とはいつも、とうの書き手本人なのだ。

 

わたし個人の話をしよう。こんな日記を毎日欠かさずに読むひとなどわたし以外にはいないだろうから、わたしはこの日記の、真に唯一の追っかけであることになる。わたしの書くことを、もっとも深く理解するのはわたし自身だ。もっとも共感するのはわたし自身だ。もっとも影響を受けるのはわたし自身だ。そしてもっとも影響を与えるのも、またわたし自身であるわけだ。

 

かくしてここに、ひとつの興味深い、ある種のフィードバック回路が誕生する。わたしはわたしの書くものに影響し、わたしが書いたものはわたしに影響するのだから、全体で見れば、わたしはわたしに影響していることになる。当たり前に見えることかもしれない――わたしはわたし自身なのだから。しかしながらこんなふうに考えてみれば、ことの重大さが際立つのではなかろうか?

 

……わたしがわたしに影響するというこのループ。それはわたしが何らかの表現を行うことなしには、決して存在しえなかったのだ、と。

 

代表的なフィードバック回路には、大きく分けて二種類ある。片方は負のフィードバック回路と言われ、大雑把に言えば、みずからの出力した結果を元に戻す方向に行動する回路だ。自然人工の別を問わず、あらゆるところにこの形態は見られる――なるべく自分を一定に保とうとするこの回路は、きわめて制御の行いやすいのだ。

 

その逆に、正のフィードバック回路なるものも存在する。この回路は、みずからの出力をエスカレートさせる。わずかな違いを目に見える違いに変換するこの回路はたしかに使いようによっては便利なのだが、同時に劇薬であるとも言えよう。もしシステム全体が、何かしらの意味で正のフィードバックを持ってしまえば……そのシステムは文字通り、爆発してしまうかもしれない!

 

両者の境目は紙一重だ。システムの制御では系を近似的に行列で表現するのだが、この行列の固有値――すなわち、連続的な値――がすべて負であれば、システムは負のフィードバックを持つ。逆につねに正のものがあれば、システムは制御不能と言っていいだろう。ゼロは境界だ――そして物質界において、なにかがちょうどゼロであるということはあり得ない。正と負の境目付近、固有値のわずかな違い。いかにわずかでも、ときにその違いは、現象の性質をすっかり変えてしまうのである。

 

さて。文章を書くこととはどちらだろうか。それは場合によるし、ゼロ付近に張り付いていて、発散か収束かを運命に任せきりにしている場合もあるだろう。しかしながらことこの日記では、わたし以外からのフィードバックの期待できないこの場では、間違いなく正の、爆発のフィードバックのほうにいるように思われるのだ。