味覚の伝達

 ウニの専門店でウニを食べた。あらゆるものにウニが入っていて、甘くて濃厚で、とてもおいしかった。

 

 世に「美味い○○は美味い」と言われる食材は数あれど、そのほとんどについてそれは嘘である。屁理屈が得意なやつらはここで嬉々として、「そんなものが存在するかどうかとは関係なく、美味いと仮定されたものは定義上美味いのだ」とかいうしょうもないトートロジーではしゃぎ始めるけれど、そんな彼らだってもちろん、そういう意味で言っているわけではないことくらい分かっている。

 

 ではなぜわざわざ「美味いものは美味い」などと変なことを言うかといえば、それは美味いものが美味いからではなく、まずいものがとことんまずく、たいていの人間がまずいものを食べてその食材を嫌っているからである。目の前の食材が「美味いものは美味い」と言われるためにはそれが必ずしも美味くありうる必要はなく、「高いのを食えばいくらかマシ」程度で十分であり、おそらく実際、そういう言語運用がされている。ならば合理的なわれわれは、まずいものに当たるリスクを冒してまで高い金を払ってそんなものを食べようとはしないほうがいい。そしてそのリスクマネジメントの唯一の例外がウニであり、美味いウニは本当に、ものすごく美味い。

 

 さて。ウニはすごくおいしかった。ほんとうはそのおいしさをことばにして伝えたいところなのだが、そのための良い表現が全然、思い浮かばない。甘いとか濃厚とか、深みがあるとかあとからじわっと来るとかそういう月並みな表現ならできるけれど、なんだか他人のことばなようで、しっくりこない。それにそう表現されるものはほかにいくらでもあるから、あの思わず笑いだしてしまうほどの感動が、うまく伝わる気がしない。感じたものに誠実でありたいが感じたものは味であってことばではないから、もしもっとも正確な表現をするのであれば、またしても月並みな表現だが、「いいから食え、味は俺が保証する」だとかなんの情報量もないことを言うしかなくなってしまう。

 

 とはいえそれは、ことばという形態の持つひとつの限界なのだろう。理屈や感情を表現するのにことばは極めて有用であり、表現する上でのボトルネックはつねに言語運用能力だが、味覚を表現するうえでは、ことばそのものの限界が先に来る。どんな美辞麗句を並べたところで、その味を実際に感じさせることはできず、つぶさに想像させることもできない。だからわたしが伝えられるのはせいぜい、おいしかったということだけである。