意図せぬ詭弁力

なにも書くことが思いつかない日でも、いざ書き始めてみると筆が乗って、いつの間にやら文章ができていることがある。昨日はそうだったし、だから今日もきっとうまくいくと期待していけない理由はない。というわけで、あとは本能の赴くままに書いていこうと思う。

 

いいや。思いつかない以上仕方がないかもしれないが、できればそういうことはしない方がいい。これは文章の練習であって、そして文章とは本来、書きたいことがあって書くべきものだからだ。だからたとえ、適当にキーをタイプしているだけで文章らしきものができあがるからと言って、それで満足して終わらせては意味がない。やっつけの反復練習ではなにも身につかないということは二十五歳にもなれば知っているだろう。

 

とはいえ二十五まで育ってしまったわたしは、そんな正論を真に受けるほどもはやピュアではない。どんなものごとも、正論を唯一の正解としてしまうほど単純ではないのだ。正論がわたしに刃向かうなら、都合のいい詭弁と屁理屈で対抗する。お前がいまやっていることは完全に無意味だと論理的に説明されたくらいで、今更心が揺らぐような歳ではない。

 

今回の屁理屈は単純だ。物事を始めるのは難しいが、続けるのは簡単だ。ここ数日は書くことが何も思いつかず、行き当たりばったりで書きはじめてみたり適当な情景描写をしてみたりと適当にやっているが、それはなにも今日一日のためではないのだ。調子の悪い日でも無理をしてやっておくことで、わたしは続けている状態でいることができる。そうやってのらりくらりとやっているうちに、調子のいい日がかならず来る。その日、わたしの練習は大きな成果を挙げるだろう。その日のために、いまは現状維持が大切なのだ……

 

……とまあ、こんなところだ。詭弁だとは知っているが、すくなくともこの屁理屈にはそれなりの説得力がある。もちろん、わたし自身に対する説得力だ。あなたがどう思うかは関係ない。

 

思えば今日みたいなことをする能力は、書き始めてから伸びているように思う。なにも書くことがなくても、とりあえずことばにして千字くらいを埋める能力。本能の赴くままにキーボードを叩き続ける能力。そんな能力を身につけてなんになるのかは知らないし、別に誇れるようなことでもない。でもまあ、そのおかげでずいぶん、わたしは楽に続けられるようになった。

 

せっかくだから、正当化でもしてみようか。この能力を身につけて、わたしはよかった。なにせ、続けるコストを下げてくれたのだから。そして世の中には、無意味な文章と言うものが結構ある。文章の中身はどうでもよく、ただ存在していることだけに価値がある文章が。そういうものを書く能力を、わたしは手に入れたのではないのか?

 

もちろん、それは詭弁だ。けれど上手な詭弁ほど、わたし自身の精神を穏やかにしてくれるものはない。