世界語がなくなるまで

英語で書かれた数学の証明を、自動翻訳で日本語にして読む。あるいは日本語で書いた証明を、チャットウィンドウに貼り付けて英語にする。厳密性が要求される文章でそんなことをするなんて、五年前なら絶対にやってはいけなかったことだ。けれどもいまでは、ちゃんと読める文が出てくる。

 

ここ数年で、英語の執筆をとりまく状況は大きく変わった。技術は数ヶ月のスパンで進歩し、文章とはかならずしも自力で書くべきものではなくなっていった。英語の文章をつくりたければまず母語で書き、それを翻訳機にかける。英語に関して執筆者がやるべきことは、出てきた文章を読んで内容が変わっていないかどうかを確かめることだけだ。それだけで、ノンネイティブのわたしが書くよりはるかに上手な英語が生成される。

 

このように技術は、書く力を代替可能なものにした。母語で書く力と英語で読む力があれば、英語は書けるようになったわけだ。それは革命的変化と呼んでいい――これまでに存在していた「書く力」という仕事上の障壁を、分解して消滅させてしまったのだから。総合的な英語能力を四つに分類して、「四技能」と呼ぶことがある。それはそう遠くない未来に、「三技能」と呼ばれるようになるだろう。

 

革命が起こったとはいえ、技術はゴールに到達したわけではない。四技能を三技能にしたところで、まだ三つは残っているからだ。英語非母語話者のわたしたちはこの現代でも、まだ英語で読み、聞き、話さなければならない。技術はまだ異言語コミュニケーションを、完全に自由にはしていない。

 

翻訳技術の究極の到達点とはなんだろう。勝手な定義になるがそれは、だれも世界語を勉強する必要のない世界のことだとわたしは思う。お互いが自分自身の母語を用いながら、円滑にコミュニケーションを進められる世界。ひとびとが仕事上の必要性ではなく、文化的あるいは言語学的な興味によってのみ異言語を学習する世界。そんな世界ではもはや、世界語という概念はなくなるだろう。使う言語を統一する必要などどこにもないのだから。

 

そんなユートピアを目指す過程で、あと何度の革命が起きるだろうか。

 

書く力は不要になった。聞く力はきっと、読む力で置き換えられる日が来るだろう。必要な技能の数はきっと、ひとつずつ減っていく。そしていつかきっと、ゼロになる。

 

その日がいつなのかは分からない。本当に訪れるのかも定かではない。いずれ不要になる技能を磨きたくはないから、来るならなるべく早く来てくれると嬉しいけれど、世の中はそんなに都合よくはできていない。残念ながらそれまでの間、わたしは英語を使わなければならない。

 

けれどわたしたちは、夢を見続けていることはできる。ゴールまでの過程でどんな革命が起きるのか、想像するのはそう難しくない。わたしたちは一度、革命を経験したのだ。タイムマシンや銀河旅行と違ってこの夢は、それなりに地に足がついている。