可能性の話 ⑧

 忘れたと書いたがあれは嘘である。

 

 当時のわたしが考えていたことの多くを、わたしはいまも覚えている。もちろん忘れてしまったこともいくらかはあるだろうが、大部分は覚えているか、言われればそんなこともあったと思い出せる。なにせ、まだ一年と少ししか経っていないのだ。

 

 それはさておき、一年前の自分は別人である。ちょうど、一年前の社会がいまとはまったく違う社会であるのと同じように、だ。だからいまのわたしは、あのころのわたしとは異なる考えを持っている。あのとき言ったと覚えていることのなかに、あれは間違いだった、と思えるものはたくさんある。

 

 たとえば当時、わたしはこんなことを考えていた。言語モデルの出現と普及は、良いことばづかいだとわたしたちが考えるものの内容を変化させるだろう、と。

 

 人間が話しかける相手の少なくない割合が機械になれば、良いことばづかいとは、機械にとって分かりやすいことばづかいを意味するようになるだろう。そうわたしは考えていたし、わたしだけがそう考えたわけでもなかった。けれども現状、世の中はそうなっていない。学習エージェントが望み通りの出力をしてくれるよう、わたしたちはやつら相手につかうことばの正確性に気を遣ってはいるけれども、そのことばづかいが対人関係の領域を侵食しはじめている、という例は、残念ながら聞いたことがない。

 

 あるいは、こんなことも考えた。言語モデルになにか複雑なことを教え込もうとするという行為を通じて、生身の人間が教わったなにかを理解できないという状態がどういうものなのかをよく理解できるようになるだろう、と。AI の書いてくる数学の答案が、数学をよく理解しないままに雰囲気だけを合わせようとする受験生の答案によく似ている、というのがこの発端であるが、これもまた、似ているということ以上のなにも言うことができなかったという点で、とくに有用な考えではなかった。

 

 言語モデルの登場が、言語と直接の関係のない常識までをもがらりと変えてしまうと意味不明な予想をしたひとたちと同じような勘違いを、わたしもまたしていた。言語モデルはあくまで、言語を上手に扱うエージェントに過ぎない。世の中における集団認知の領域のすべてを、そのモデルが変えてしまうわけではない。

 

 わたしの勘違いは、ただ社会のインフラの一翼を担うにすぎないそれが、社会の中心のすべてを司ると拡大解釈してしまったことにあった。