執筆と失望

研究を取り巻く環境に関して、二年前のわたしにはもう少し、思うところがあったような気がする。

 

思い返せば、日記をはじめたのも半分はそのせいだった。研究という活動に付随するいろいろな正義や常識に揉まれ、その多くを受け入れることができなかったわたしは真剣に反発した。アカデミアが高く評価するさまざまな観念のなにがそれほどいいのか分からなかったがゆえに、その価値を否定することに躍起になった。だから、それを書く能力があったかは別にして、書くべきことはたくさんあった。

 

より具体的に思い出そう。理論研究に意味などないと主張するためにわたしは多くの文字数を費やしたし、意味を感じているやつらの言うことにまるで共感できぬというわたし自身の弱さを広く見せつけるために、ずいぶんとみずからの心を抉り、精神をすり減らした。そうするだけの反発心がわたしにはあった。

 

さんざん反発したせいか、それなりに折り合いはついた。理論研究の意味はいまだ分からず、とはいえ分からないということはべつに誇るべきことでも恥じ入るべきことでもないと認識し、そして誇りも恥じ入りもしないのであれば、それはもう重要な問題ではない。世の中にはそこに意味を感じる酔狂なひとびとがいて、かれらはたとえば好んでフルマラソンを走ろうとする同僚のように、共感しようと試みるだけ無駄な存在である。理解する必要がなければ、反発する必要もない。

 

書くこととは間違いなく、そう認識するうえで重要なステップであった。とはいえそれは、書くことそのものを通じて認識を整理するという、最初に想定していたような手順で芽生えた認識ではなかった。いや、書くことが認識を整理したのは間違いないのだが、わたしが最終的に認識したのは、書いた内容そのものではまったくなかったのだ。

 

頭の中にあるうちは壮大に見えたことも、書いてみるとくだらないということは多い。研究に対してわたしが見ていたものも同じであり、それについて繰返し書くまで、研究に関するあらゆる問題は重大な問題であった。だがいざ書こうと志し、頭の中で芳醇な強烈さをもって渦巻いていたことばをエディタに並べなおしてみると、なんだかすごく内容が薄い。そんなはずじゃなかったのにと思うが、考えたことはどう見返してもすべて書かれている。

 

書くことにはどうやら、自分の矮小性を強調する効果がある。文章という客観的なかたちにみずからを落とし込み、落とし込んだものを再び見て、そのあまりの拙さに失望する。あとから思い返せばくだらない反発や悩みに折り合いをつけるのは、きっとそういう失望のなせる業である。