読解力の欠如と、自動生成の浸透

文章をきちんと読めない人間が、世の中には想像よりはるかにたくさんいる――という言説は、ここ十年ほどで急激に、広く世の中に浸透していった考え方だろう。その時期に青年期を過ごしたわたしにとって、それは社会を見る方法に大きな影響を与えた考え方だった。

 

ことの発端はたしか、とある有名な人工知能プロジェクトだったと記憶している。大学受験の問題を人間より上手く解くことを分かりやすいゴールに据えたそのプロジェクトは、研究者からすればけっして賢いとは言えない AI を生み出した。膨大な知識を要求する問題など、コンピュータが明確に得意そうな分野の一部では人間を凌駕するものの、全体として見れば歪なところの目立つ答案。特に国語の読解問題などでは、文章を読めているとは到底言い難い意味不明な答えをそれは出力していた……らしい。

 

しかしながらその国語で、AI は結構な数の人間受験生よりいい成績を叩き出した。それが議論の種だった。AI は明らかに文章を読めていない。にもかかわらず、人間の多くより成績がいい。となれば、導かれる答えはひとつ。人間も、実は全然文章を読めてなどいなかった。

 

そのセンセーショナルな仮説を裏付けるように、同時期のインターネットでは SNS が発達していった。これまで観測することのなかった文章の読めない人間を、この目で見ることのできる機会が増えていったのだ。こうしてわたしは多感な時期を、人間がいかに文章が読めないかということについて、論理と体験の両方の面で実感していくことになった。

 

わたしと同じ世代のひとたちは、きっと似たようなことを経験しているだろう。社会を認識する方法を大きく変えられた……かどうかはひとによるだろうが、ひとつの現象として見てきてはいると思う。そして文章を読めないひとがたくさんいることを前提に社会が回っていくのを、目の当たりにしてきたと思う。

 

さて。技術の進歩とはすさまじいもので、現在の機械学習は文章を書く研究をもするようになった。小説を書く AI なんていう代物も出てきて、それがなかなかにいい文を書くのである。いまや機械は文章を読むだけではなく、書くこともできるようになったというわけだ。入力から出力へと、機械は一段階グレードアップした。

 

……いや。その言い方は正しくない。機械はべつに、今でも文章を読めてなどいない。それなりの数の人間より上手く読めるということは、読めるということを意味しないからだ。そしてそれと同様、機械はそれなりの数の人間よりきっと上手く書けるのだろう。でも読む場合と同様、それは機械が文章を書けるということを意味しないはずだ。現代の AI は確かに、非常にこなれた文章を生成することができる。けれど、全体として一貫性のあるストーリーを構築することはできない。

 

けれど。機械が書けない原因が、もし機械が読めないことにあるとすればどうだろう。つまり機械が、ストーリーを読み解けないということにあるとするならば。そしてストーリーを読むという点においても、多くの人間が機械よりも劣っているならば。

 

機械の生成する文章は、かなりの数の人間にとって、すでにもうまったく自然なものになっているとは考えられないだろうか? 文章を生成した機械にとってみずからの文章が自然なのと、まったく同じように?

 

一部の小説書きは、AI を創作に活用していると聞く。といってもそれはあくまで執筆の補助であって、肝心のストーリーのほうは自分で考えている。けれどもし人間がストーリーを理解しないのなら、それは不必要な工程ということになる。文章の読めない読者だけを想定するのなら、彼らがやるべきことは創造ではないかもしれない。AI の出力した文章をそのまま投稿サイトに貼り付ければ、もうそれでいいのかもしれない。

 

小説生成器が自動生成した小説を、一般大衆が喜んで享受する。『1984年』にもそんなシーンがあったように、ディストピアの描写で恒例のテーマだ。けれどそんな風景は案外、今でも手を伸ばせば届くところにあるのかもしれない。