衰退の側に立つ ①

昨今のアカデミアに関して聞く話は、どれもなかなか暗いものばかりである。

 

暗い話にも二種類ある。片方は恵まれない環境に対する愚痴で、たとえば給料が安いとか学内業務が忙しいとか、事務が無能だとか申請書に手いっぱいで研究ができないとかいう話が挙げられる。そういう話をするひとは実際に気が滅入っていて、だからこそ気の滅入る話を世の中に垂れ流す。垂れ流してもゆるされる立場にいるだけまだましなのかもしれないが、とにかく嫌なものは嫌だろう。未来のわたしがそういう悩みに直面するところを想像すると、当事者でもないのに気が滅入ってくる。

 

もう一方は、このままではこの国の研究力が衰退してしまうという悲観論だ。国の文教予算が少ないだとか文科省の配分がヘタクソだとか、そういった話が挙げられる。日本のノーベル賞受賞者は二十年後にはほぼゼロになるだろうとか、かれらは嘆く。そして実際、そうなのだろう。わたし個人としてはべつに日本から良い研究が出ようが出まいがどうだっていいし、アカデミアの存続を望む理由はわたしやわたしの同類の就職先が減ってほしくないということ以外にはない。けれどもまあ、衰退を防ぐことが重要な問題だと考えるひとがいるのは理解できる。

 

これらのふたつはもちろん、簡単に切り離せる問題ではない。環境が嫌なら志願者は減る、志願者が減れば業界は衰退する。業界を衰退させないためにはそこが魅力的であり続けねばならず、だから面倒ごとは排除すべきだ。こういう理屈を並べることで、わたしたちはふたつの暗い話を行ったり来たりすることができる。はっきり言えば、個人の問題でしかなかった身の回りの環境の悪さを、社会全体の持つ構造の問題へと昇華することができる。

 

その類の話の代表例にこんなものがある。ほとんどの研究ポストには任期が決まっているから、じっくりと腰を据えた研究ができない。短期で成果の出るテーマばかりを追い求めることになり、本質的な研究が芽生えない。いますぐに成果は出ないが面白そうなテーマがあるのにもかかわらず、雇用システムの関係上、それに手を付けるというギャンブルに挑むことができない。

 

わたしはそういう大それたテーマなど持っていないし、アカデミアの将来を憂慮することもない。短期で成果が出ることにむしろわたしは喜びを覚えるし、ひとつの研究に五年も十年もかけたいとは思わない。だからわたしは、この文句には共感できない。けれどもまあ、こういう意見を持つひとびとがいるということは理解できる話ではある。

 

そして。かれらがもし、長期的にものを考えたいというのが全員の共通認識であるかのような語りをしていなかったのだとしたら、わたしはこんな文章を書かなかっただろう。