詳細未設定

エディタに向かってはいるのに、一向に指が動かないとき。そんなときはたいてい、自分でもなにを書けばいいのか分かっていないがために、なにも書けなくなっている。

 

そんなときどうするか。当然の理屈として、真っ白な画面の前で唸り続けるのはやめてまずはなにを書くのか決めましょう、ということになる。歩き回るのでもお茶を淹れるのでも寝るのでもなんでもいいからとにかく、にらめっこよりはリラックスできて、ものごとを思いつける環境に自分を置く。で、たいていの場合、書こうとしているなにかについて自分がいかになにも考えていなかったかという事実を突きつけられる。そうか、諦めてすっかり忘れてしまうか。

 

上手くいくとひとは書くことを思いついて、パソコンの前へと戻ってくる。で、書く。そうすれば書き切れるかといえば必ずしもそんなことはないけれど、書けるときは必ずと言っていいほど、自分の中に新しい理解が目覚めている。起こったことをトータルで見てみれば、書こうと志したことによって自分の中の不理解が露呈し、それでも書こうとすることで、不理解が理解へと変わった形だ。つまるところ執筆という行為には、理解していないとは自分でも思っていなかったことに対する理解をもたらしてくれる力があり、それこそがわたしが執筆活動に求めていることのうちのひとつである。

 

さて。その手の効果は、書こうと目指す文章が詳細であればあるほど大きくなる。詳細な文章を書くには、普段は気にもしないような細部を知る必要があるからだ。数学の論文なんかが最たる例で、いつもなら適当に済ませる証明の細部に著者は気をつけなければならない。先行研究をまとめる作業では、本当にそうなりたいのかはさておき、科学の歴史にかなり詳しくなれる。

 

しかしながら。文章とは必ずしも、詳細であればあるほど良いわけではない。

 

詳細でなくてもよい文章、というものもこの世に存在する。そんな文章が許されるのは、その文章の読者がそもそも、詳細な情報なんて求めていないからだ。大枠が分かれば、それでいい。

 

そんなときは原理上、筆者には深い理解は求められない。細部を気にしないざっくりとした説明でよいのなら、甘い理解でも書けてしまう。書けてしまうからこそ、細部を詰めない。細部が詰まっていないことに、気づきすらしないかもしれない。

 

そしてきっとある種の分野では、そういうことを詰めずに平気でいることこそが、文章を書くことに対する重要なスキルにもなりうるのではないか、とわたしは思う。

 

細部とはえてしてどうでもいいものだ。どうでもいいから、書くべきでないことも多い。そしてどうせ書かないことを、いちいち調べたり設定したりしても意味がない。

 

わたしは執筆に理解を求めてきた。可能な限り正確に言語化することで、自分の思考の引き出しが増えるのが好きだった。けれどもそういう態度では、きっと書けないか、不当に労力がかかりすぎる文章もあるだろう。