密度

書くことが思いつかない日はいくらでもあり、今日も今日とてその通りだが、この状況の打開のためにわたしは最近、強力な武器を手に入れたようである。改行の個数・句読点の個数・漢字の割合などのあらゆる文章の構成要素のなかからなんらかの特徴量を選び取り、それを極端に大きくしたり小さくしたりして、新しい文体を作り上げ、あとはその文体それ自身を題材にして、それがどのような表現を可能にするのかについて、その文体を用いて記述する。ここ数日はとにかく改行を増やした文体で、改行を増やすということについて書いてきたわけだが、どうにもそろそろ飽きてきたところだから、今日からはまたべつの特徴量を極端にしようと考え、この文章を書き始めたわけである。

 

賢明な読者ならすでに正体を把握していることだろうが、今回の特徴量とは一文の長さ、句点と句点の間にはさまる文字あるいは読点の個数である。一文が長いこととは一般的には読みにくい文章の特徴とされているから、今日のわたしはなんの狂気かわざわざ文章が読みにくくなるような縛りを加えていることになるわけだけれど、思い返してみればこと純文学分野をはじめとして世の中の名著のいくらかは、長い文が気の遠くなるほどいくつも続くばかりか、それが作品の味にすらなっているわけで、余白のほとんどない本のページを見てわたしたちは、これを読まされるのかとうんざりすると同時に、密度の濃い充実した読書体験への期待に胸を膨らませるわけであるから、一文が長いこととはやはりれっきとした表現の形態なのであって、したがって単にそれだけをとって、悪文だと断ずることはできまい。

 

この文体を使うのはわたしにとって今日が初めてだから、新しい文体について必ず問うべき問い、すなわちこの文体を使うことは執筆にどういう影響を与えうるのか、ということについて考えておくべきだろう。初体験からまだ三十分と経っていない現状、ほとんどのことは分からないとして保留しておくのが真摯な態度というものだが、それでも一応分かることがないわけではなく、そのうちひとつは、文章を可能な限り堅く冗長にするインセンティブが働くということ、要するに補足しうるすべての内容を一文のなかに押し込めて、複雑な論理展開も気にせず、枝葉末節にわたっていっさいの誤解の余地の生じないように記述したくなるということであり、だからこそ接続詞や接続助詞といった、文同士の相互関係をあらわす語を多用することにもつながるわけである。