わからないのはわたしたちだけ

そう意識しなくても、わたしたちのことばづかいは、わたしたちがふだんやっていることに影響されてしまう。ひとりの博士課程学生として、わたしはふだんから数学をしているから、わたしのことばづかいは多かれ少なかれ数学的だ。

 

数学的なことばづかいとはなにかという問いにはさまざまなこたえがあるが、そのひとつは、高度な厳密性だろう。数学を学ぶ過程で、わたしたちは書かれた文を、書かれているとおりに厳密にあつかうすべを身につける。わるく言い換えれば、わたしたちは、融通の利かない身であることをみずからに課している。

 

その影響で、わたしたちのふだんのことばづかいは、必然的に厳密になる。ひいては、考え方もまた。わたしたちの多くは、そうしてかたちづくった考え方は、世の中を齟齬なく理解し、効率的に発展させるために大いに役立つと純粋に信じている。この自惚れがほんとうにただしいのかには疑問の余地があるが、今回は深くは立ち入らないことにしよう。

 

さて、厳密にことばを使うわたしたちは、厳密でないことばづかいを見たとき、よくわからないという感想をいだく。数学をはじめたてのころはよく誤解したものだが、数学に携わるひとが「それはどういう意味だ」と聞いたとき、かれらはわたしをいじめたり、ことばづかいを直させたりしたいわけではないのだ。単に、わたしのことばをわからないと感じているだけ。

 

厳密でないものを理解しないこの態度は、数学のなかでは正当化される。数学は、いっさいのあいまいさを含まない本質的に厳密な体系だ。だから、完全にただしく伝わらない表現はすべて、悪なのだ。

 

しかしながら、外の世界ではそうではない。世の中のほとんどのひとは、表現の厳密さにかんして、わたしたちほどの境地には達していない。だが、だからといって、世の中のほとんどは言語を解さない、といえるわけではないのだ。自然言語には、すこしの工夫で数学を記述できるほどの厳密な表現能力があるが、それ以上に重要なのは、あいまいな表現でもコミュニケーションを成立させられるだけの柔軟性だ。

 

わたしたちの目には、世の中のことばのあいまいさが鮮明にうつる。そして、あいまいなものがいかようにも解釈できる以上、わたしたちは無意識に解釈を保留し、わからないと主張する。だが往々にして、わからないのはわたしたちだけなのだ。

 

数学を数学的に理解する代償として、わたしたちは、あいまいな表現をあいまいに理解するすべを失ってしまった。だからこそ、わたしたちに必要なのは、あいまいな表現をどうにか解釈し、わたしたちが理解できるかたちに補完する想像力だろう。願わくばわたしは、「それはどういう意味だ」ではなく、「それはこういう意味か」と質問できる人間でありたいものである。