がんばらない主義

「天才とは、1% の才能と 99 % の努力である」たしかこれは、トーマス・エジソンのことばだったか。その数字の根拠については定かではないが、このことばの解釈は簡単だ。すなわち、才能を持つものが努力してはじめて、おおきな何かを成すことができる。

 

エジソンがいつの人間かを考えれば、このことばはひじょうに長く語り継がれている。息の長いことばとは、たいてい示唆に富んでいるから、これはもちろん、ありがたいことばだ。

 

ただし、じっさいの天才の口から発されている限りは。

 

天才とは 99% の努力である、と言うに至った一人の天才の比類なき努力とは裏腹に、このことばをただ口にするのは、すこぶる簡単だ。ことばとは偉大なもので、天才の努力を経験していなくても、誰しもが天才の努力を語ることができる。さらにいえば、こう語るのには天才の努力どころか、凡才の努力すらも必要ないのだろう。

 

「努力せよ」とは、もっとも単純かつ普遍的なアドバイスである。なるほどこのアドバイスは、たしかに理にかなっている。無限の努力があれば、ほとんどのことは成し遂げられるのだろうから。

 

だが、ひとがアドバイスを求めるのは、目の前の具体的な状況をどうにか解決したいからだ。こういう状況で、「努力せよ」とは、もっとも役立たずなアドバイスだ。はぁ、そんなことは分かっている。もっとちゃんと俺のことを考えてくれ。もし実際に質問者の努力が足りず、「努力せよ」というアドバイスこそがもっとも的確だったとしても、その的確な指摘は何の足しにもならない。なぜなら、「努力せよ」は普遍的すぎて、誰だって言われなくても検討することだからだ。

 

にもかかわらず、世の中の多くは、努力が足りないの一点張りで片づけられる。古臭い高校野球の指導者などはさいたる例だが、なにもその思考停止の命令がはびこっているのは、体育会系の文化圏だけではない。研究では、先行研究の紹介が網羅されていなければ、あるいはひとつでも間違いを書けば、それは研究者のサーベイの努力が足りないということになる。数学の学習では、ゼミでの質問に答えられなければ、それは発表者が理解するための努力が足りないということになる。そしてこれらに対し、努力以外のアドバイスは、めったに与えられない。

 

さて、こんなことを書いているとおり、わたしはわたしが努力の苦手な人間だと知っている。もちろんあたりを見渡せば、自分よりもはるかに努力の苦手そうな人間はいくらでも見つかるのだが、だからといってわたしが努力できることにはならない。わたしが目標とするのは、わたしが主観的に努力をしたと思えるだけの努力だ。そしてそんな目標は大抵、まともに達成されるわけがない。

 

だからといって、努力ができないと嘆き続けても意味はないだろう。みずからの才能に固執し、努力のできる理想の自分を夢見るあまり、努力のできない現実の自分を責め続ける、そんなみじめな人間をわたしは何人か見てきた。そして、わたしはそうなるつもりはない。だからわたしが考えるのは、どう努力するかではなく、どう努力せずに済ませるかだ。

 

思い返せば、わたしがこれまで書いてきたことのいくつかは、努力をしないための工夫として説明できる。たとえば、わたしは深遠な理論が嫌いだが、それは深遠な理論は理解するのが大変だからだ。わたしは日記の一貫性を気にしないことにしたが、それはある意味、一貫性のための努力に疲れたからだ。

 

というわけで、今日の日記はこれで終わりだ。終わりかたがほかに思いつかないから、こうやって無理やり終わらせてしまおう。ほんとうは、わたしはもっといい締めのことばを見つける努力をするべきだし、さらにいえば、雑な締めだと言いながら、この自己言及性を実は綺麗だと思っているという矛盾にも言及する努力をせねばならない。だが、そんな努力にももう疲れてきたから、今日はこうして下手くそに文章を締めた、ということにしておこう。ほんとうに下手くそなのかは、さておき。