ミスは無礼の証拠

フォーマルな文章を出すときはネイティブの英文校正業者に頼んで、英語をまともにしてもらわないといけないと主張するひとがいる。ノンネイティブの書いた英語は間違っているから、そんな英語を読ませるのは読者への失礼に当たる、とかれらは考えている。

 

わたしはネイティブではないからその気持ちは分からない。というか、間違った英語を読まされたところで、それが間違っていることにそもそも気づけない。だから英文校正というしきたりは、わたしにとっては単に、英語力のハードルを上げてくるだけの非生産的な因習だ。英語の正しさなんていうネイティブにしか関係のない価値観をノンネイティブに強制するネイティブのことを、わたしは憎いとさえ思う。

 

だがしかし、その「英語」の部分を「日本語」に読み替えてみれば、言わんとしていることは理解できる。わたしは研究の徒なので研究の話をするが、論文誌というのは一応、出版社が責任をもって販売している出版物のひとつなのだ。実態としては、編集者の立場にいるのもまた無償労働の外部の査読者であるという点で、いわゆる「出版社」とは程遠いかもしれない。一般の雑誌と違って、著者に原稿料が入ってくることもない。だがそれでも一応、なんのからくりか、論文とは商品として売られるものなのである。そして商品として売られている文章に言語的正しさを要求することを、間違った態度だとはとても呼べない。

 

さて。では、そうでない文章はどうか。言語にかかわらず、文法的語法的正しさを要求されない文章というものが世の中にはたくさんある。それらの文章だってもちろん正しいに越したことはないのだが、なぜ正しくなくても許されるのかと言えば、文章を正すために必要な能力と労力を、書き手に期待していないからだ。多少間違っていても意味は伝わるものであり……そして、カジュアルな場では、あるいは発言主がノンネイティブならば、それでいいのだ。

 

かくしてわたしの書く英文には、一部の例外を除けば間違いが許されている。その最たるものは、メールやチャットの文章だろう。これらはフォーマルな連絡ではなく、したがって間違っていようが意味が伝わりさえすればいいのであり、つまり校正を挟まずにわたしが書いても良い。正しく書こうとしたってわたしにはその能力がなく、無能を補うだけの労力をかけるべきことでもない。

 

だがしかし最近、技術の発展によって、能力不足という言い訳は通用しなくなってきた。すくなくともそう、わたしは感じている。

 

AI はわたしより英語が上手い。英文メールを書かせれば、ネイティブが書くのとまったく変わらないメールが書ける。そしてその事実は、AI がより普及すれば、ノンネイティブにもネイティブと同じだけの英文力が要求されるようになるかもしれないということを意味している。

 

わたしはこれまで、英語のメールを自力で書いていた。間違っているだろうとは思いつつも、仕方がないのでそのまま送っていた。だが、これからはそうはいかないかもしれない。これからはもしかすると、ノンネイティブが英語を自分で書くということそのものが、失礼なことになってくるかもしれないのだから。