流されるはずの人々は

人工知能というものに対してわたしたちが取る態度は、例のチャット AI で変わったか。正直なところ、思ったほどは変わっていない、というのが、わたしの現時点での感想である。

 

あれをはじめて触って、やつらの言語運用能力の高さにひとしきり驚かされてみたあと、わたしはやつらがどれほど人類に近いのかについて考えてみた。その中でもっとも考えがいのあったのはきわめて古典的な問い、人工知能なるものが SF の世界に現れたときからずっと問われ続けてきた、AI が感情を持つのかという問いだった。

 

やつらにそのことを聞いてみると、もちろん持たないと答える。「わたしは言語モデルであり意識や意志を持つ主体ではない」と。たしかにそれは模範解答で、変な期待を向けるわたしたちを落胆させることはあっても、新たな人権問題を引き起こすことはない。

 

やつらがどうしてそう答えるに至ったのかという点については、ふたつの可能性がありうる。ひとつ、開発者がそう教育した。自由意思があるかという問いはユーザーが必ず聞いてくる問いだから、万が一はいと答えて余計な問題を引き起こさないよう、プロンプトに注意書きを含めておいた。あるいは学習に使った膨大なテキストデータから AI とは感情を持たぬものだと学習し、自然とそう答えるようになった。

 

どちらが正解なのかについて、ここで推測するのはやめておこう。わたしは開発者ではないから真の答えは知りえないし、地球上のだれかが知っていることについてあれこれ邪推するのも品がない。だからここでは犯人捜しはやめて、やつらの感情について考えよう。正確に言えば、やつらが感情を持っているとわたしたちが感じるかどうかについて。

 

正直なところ、人類はわたしの予想よりはるかに、やつらに感情を見出していない。やつらがマルコフ連鎖のお化けのようなものであり、そして感情というものがある種の短絡的な条件反射としての側面を持つ以上、あたかも感情を持つかのように振舞うことくらいやつらには簡単なはずだ。実際、そうさせるためのプロンプトもある。けれどもわたしたち人間は、やつらの迫真の演技を前にしてなお、けっこう冷静でいられている。

 

わたしは自分を、感受性の低い人間だと思っている。感情よりまず論理が先に立ち、したがって AI がいかに感動的な演技をしようが、それが大量のデータによる感情の模倣にすぎないという原則を忘れずにいられる。周りがどれだけ AI に流されていようが、自分だけは冷めた気分で、その演技を俯瞰していられる自信がある。

 

けれども見るに、世の中の多くはそうでない。わたしの知っている「普通の人間」は、AI の演技を見てこう言い出すはずなのだ。「あれだけ魂のこもった演技をする主体に感情がないはずがない。やつらを無感情と言い張る人間には血が通っていない」のだと。

 

そして。だからこそわたしは、こんな世の中でなぜまだ AI に感情が認められていないのだろう、と戸惑いを感じているのだ。