問題視を問題視する

世の中は問題で溢れかえっている。ひとくちに問題と言ってもその性質は多岐にわたっていて、共通項があるとすればおそらく、提起したひとが現状に満足していないという点だけだろう。不満の性質にもいろいろあって、たとえば現行の技術水準で解決できないなにかに対する不満ならば、その矛先は科学技術に向く。矛先が正しく向けられればその問題意識は科学を発展させることになる(かもしれない)し、そうでなければ逆に、疑似科学の教祖に金と信者をむしり取られることになるかもしれない。

 

問題の種類はほかにもある。結構な数の問題は、しかるべき社会制度が制定されれば解決されるか、すくなくとも提起者はそう考えている。とはいえ社会制度というのは、複雑に絡み合ったコードのようなものだ。たとえ夫婦別姓同性婚と相続とその他諸々の問題が、戸籍制度の改革ひとつで簡単に消滅してしまうからといって、はいわかりましたと戸籍を捨ててしまうのは現実的にできない。だから、そういう問題だって難問になりうる――制度を変えるだけで解決するように見える問題だって、科学技術の限界のかかわる問題と同じくらい、難しいかもしれない。

 

さて。ではむしろこう問うてみよう。どうしてこうも、世の中は問題だらけなのか。あるいは、どうして人間は世の中のことを、問題が山積みだと感じ続けるのだろうか。人類はこれまでに、相当な数の問題を解決してきたのではなかったのか。先人たちが多くのことを成したのにもかかわらず、わたしたちはまだ満足できないのだろうか?

 

それにはこんな解釈ができる。問題は、世の中にアプリオリにあるわけではない。問題を問題として認識するのは、わたしたちが問題を作り出すからだ。この世をユートピアと信じたほうがはるかに幸せなはずなのに、それでもわたしたちが問題を作り出すのは……それを人類が義務だと思っているからだ。

 

そういうふうに考えれば、原理上ユートピアは存在しえない。なぜなら人類は、どんな世界であっても、改善すべき点を作り出してしまうからだ。人類全体が幸せになる世の中は、もしかすると存在しうるかもしれない。しかしながら改善の余地があるという点で、そこはユートピアとは呼べないわけだ。

 

わたしたちは、世の中を褒めるということを知らない。問題の存在を否定し、現状こそが最高であると叫ぶことは許されない。じつのところ、現状維持とは主張するのがいちばん難しい意見だ。なぜなら主張者は、比べて現状維持のほうがいいと言い張るための、すべての比較相手を想像してみなければならないのだから。

 

人類の例に倣って、わたしも問題を提起してみよう。人類の問題は、なんでも問題にしてしまう癖にある。問題にしても仕方のないことは問題にしないように、人類は変化しなければならないはずだ。だって。

 

そうでなければ、仮にユートピアが訪れたとして、人類は絶対にそれに気づけないからだ。