赤の他人のとった賞

タイムラインがやけに盛り上がっているので、どうしたことかと思えば、どうやら今日はフィールズ賞の受賞者が発表される日だったそうだ。

 

言われてみれば、盛り上がるのは自然なことだ。わたしの非常に大雑把な理解ではフィールズ賞とはノーベル賞の数学版で、だからノーベル賞の一部門の盛り上がりと同じくらいには、フィールズ賞も盛り上がっていいはずだ。わたしのタイムラインには数学の関係者がたくさんいるから、そりゃあ、みんなその話をしているはずである。ノーベル物理学賞についてやいのやいの言う物理のひとの姿を見ていれば、むしろ足りないくらいだ。

 

しかしながら彼らの言及は、ノーベル賞の時期に必ず行われる類の使い古された議論をともなっていない。彼らは純粋に(わたしの知らない)研究者の名前を挙げて、それがなにを意味するのかを純粋に考えている。受賞した人が違えば彼らが議論する内容も変わってくるのだろう、とわたしは感じる。彼らは賞をナショナリズムに帰着しない。スポーツを応援するかのように日本人研究者の受賞を願ったりはしない。したがって、研究者個人の性格よりも研究の中身を紹介せよ、という無茶な要求をしない。仮に受賞したのが日本人だったとして、おそらく彼らは、それが日本数学界の過ぎ去った栄光の時代の残り火であることを得意げに指摘しようとはしない。

 

それらはある意味では良いことかもしれない。全世界の国境なき協調を科学的な正義と定義するならば、彼らは科学的に正しいわけだ。しかしながら同時に、わたしの脳裏にはまったくべつの、奇妙に類似した構図が浮かんでしまう。大したファンだったわけでもない芸能人が、結婚するなり離婚するなりしたとき、それをいちいち追いかけようとするひとたちとの類似性だ。

 

別の分野の学者とは言うなれば、わたしの知らない芸能人に等しい。こういうことを言うと敬意に欠けると言われるのだが、よくよく考えてみれば、知らない芸能人に敬意を払わなくていいという決まりもない。で、とにかく知らない学者が、存在以外何も知らない分野で、まったく中身の分からない研究成果を挙げたとする。それと知らない芸能人が知らない芸能人(もしくは一般人)と結婚することのあいだに、いったいどれほどの違いがあるだろうか。

 

分からない賞を追いかけるのが、別に悪いと言うわけではない。芸能人の結婚にわたしは興味がないが、興味あるひともいるから芸能ニュースは成立するのだ。誰かがそれに興味を持つのをわたしは止めはしないし、わたしにその話題が振られれば、ごめん分からないと言って次の話にうつる。わたしは単に、意外なのだ。普段芸能の話なんてめったにしないひとたちが、数学と言う漠然とした括りに属しているというだけで、芸能と同質なものを興味を持って見つめているという事実が。

 

だからどうした、と言われればまあ、それまでの話だ。他人がなんに興味を持っているかは、まったくもってわたしの問題ではないのだから。しかしながらそれでもわたしは、みんなが賞に興味を持っているということを想像すらしてみなかったという点で、寂しさと呼べるかもしれないなにかを感じている。感じると危険な類の感情であることは、分かってはいるのだが。

 

でもそれはまごうこと無きわたしの感情だから、わたしはそれを、大事にしていこうと思う。