正しい研究

ひとつの道をとことん極めて、道なき道を突き進んで、最初は想像さえしなかったほどの深奥へと到達する。来た道を振り返ればついてくるものもなく、自分の足跡がただ、誰にも踏まれることなくくっきりと残っている。前を見れば暗闇。その広大さは予想もつかないし、どうやって進めばいいのかだってとても分からないけれど、それでもひとつだけ知っていることがある。ここを進めるのは、世界に自分しかいないと。

 

研究者には、そういう状態になることを理想像に掲げるひとも多い。目の前の研究を理解しているひとが世界で自分しかいないという事実、そしてそれを前に進めることができるのもまた自分しかいないという孤高。彼らはみずからを探究者と位置づけ、またそうなければならないと信じている。ついてくるもののいない孤独は、むしろ冒険の困難さを証明する勲章だ。

 

そして実際に、そうなったり少なくともなりかけていたりする研究者はいる。彼らは決まって卑下した風に「誰にも理解されないところまで来てしまいました」などと言うが、もちろん謙遜のかたちをした自慢である。誰もついてこなければじきにその分野は滅びる……というのは間違いないし、彼らだってそう知っているのだけれど、それでも孤独とは名誉なのだ。そして名誉こそ、多くの研究者がもっとも重視するものだ。分野が発展するとか社会の役に立つとかそういうこと以上に重要な称号、「探究者」。

 

さて。自分たちこそが正しいと彼らは思っており、実際にそういう風に振る舞っている。アカデミアという風土は良くも悪くも、そういうひとたちに寛容であり続けている。昔はおそらく自然に、最近では少なからず、ことにつけ役に立てなどと言ってくる役人たちへの当てつけとして。そしてそういう環境にいると……誰でもきっと、彼らこそが正しいのだと思い込むようになってしまう。

 

だが彼らの研究は難しい。当たり前だ。誰もついてこられていないのだから。それらは得てして別の大理論の上に成り立っていて、もとの理論を理解するのにすら莫大な勉強が必要だ。そして大理論を理解したとて、彼らがその上に積み上げた大量の論文の読解が待っている。本当はそうではないのかもしれないが、彼ら自身を除いた全員からはきっとそう見えている。

 

となると必然的に、結論はこういうことになる。正しい研究を理解できないわたしは馬鹿だ。あるいは、正しい研究を理解するための努力をする気になれないわたしは正しい研究者ではありえない。正しい研究がかくも難解なものなのなら、わたしは一生はぐれ者でいい。わたしにきっと、研究という営みは向いていない。

 

それが正しさに関する偏見に基づいた観念だと気づくのに、わたしは結構な時間がかかった。