英語はなかなか滅びない

英語をとりまく状況を AI はたしかに変えた。自動翻訳はかなり正確になってきたし、音声認識もだいぶ進んできた。けれどもやっぱり、まだ物足りない。英語をまったく使わなくても済む世界へはまだ、機械はわたしたちを連れていってくれそうにはない。

 

誰もが使い慣れた言語を使いながら、お互いにコミュニケーションの成立する世界。そんな理想のためにはまだ、乗り越えるべき障壁が山ほどある。多くは技術的な障壁で、正確で高速な自動音声翻訳などがこれにあたる。解決策として考えられるもののいくつかはまるで SF 的で、たとえば異国の街中の標識を理解するために網膜に映像を投影するとか、そういう技術が必要になってくるかも知れない。

 

そうした技術が発展していくさまは、眺めればなかなか楽しいだろう。言語の壁を取り払う以外のどんなことに応用されるのか、想像してみれば夢が広がる。あるいは逆に、社会はこれまで想像もしなかった部類の困難に直面するかも知れない。実際に起こってみないことには、何が起こるのかはわからないのだ。

 

というわけで。その過程で何が起こるかには、今日は触れないでおこう。そういう楽しいことは、実際にその時代が来たときのお楽しみとして取っておくほうがいい。下手に未来を予測して来たるべき苦しみに萎縮すれば、発展はきっと妨げられる。

 

代わりに今日は、技術が発達したあとの話をしよう。世界語という悪夢を存続させる要因が人類の技術不足ではなくなった世界で、世界語はちゃんと滅びてくれるのだろうか。

 

まあ、ゆくゆくはそうなってくれるだろう。世界語を設定することの無意味さに人類が気づき、英語圏以外のすべての学校のカリキュラムから必修としての英語がなくなり、そこで学んだ子供たちが大人になって、社会を回していくようになった暁には。

 

そしてそんなことを、気長に待っている暇はわたしにはない。

 

世界語には滅びてほしい。百年後にではなく、できる限り早くだ。わたしはもう二十六、英語がダメなのだという言い訳をして諸々を切り抜けたことにするのはそろそろ厳しくなってくる年頃だ。滅びない原因が技術的なものならばまあ仕方がないが、それ以外の要因なら許さない。滅ぼすという意思決定をしないことだけが世界語の存続要因である時代がたった一年間でも存在するなら、わたしはきっと人類の優柔不断を呪うことになる。

 

けれどわたしは知っている。人類は、そう簡単に慣習を捨てられないことを。無意味と知りつつ英語を使う時代は、思うに結構長くなるのだろう。そして技術の発展速度から鑑みるに、わたしはその不愉快極まりない過渡期をきっと、英語とともに暮らすことになる。世界語という因習に文句を言いながら、無意味な翻訳作業をやり続ける羽目になる。

 

そんな未来を想像すると、いまから憂鬱な気分になってくる。