無の英会話

一昨日までの旅の途中、つねにつきまとっていた問題がある。得意ではないし使いたくもない道具を、使わなければならない状況がある。そう、英語だ。正確に言えば、英語のリスニングとスピーキングだ。

 

海外では英語を避けて通れない、その事実に異議を唱えるひとは少ないだろう。避けて通れるべきだとか、技術の発展によってもうじき英語など使えなくても大丈夫になるとかそういう思想的な話ではなく、単に現代の海外では英語を話せないとやっていけないということについて言っている。英語という壁が現在のわたしたちの問題のひとつであることは火を見るよりも明らかだし、だからそれを否定しようと論理をこねくり回すのは単なる現実逃避に過ぎない。

 

あるいはひとによっては、必ずしも英語である必要はないと言うかもしれない。現にわたしたちは英語が話せないのに、この日本という国でやっていけているじゃないか。だから英語が嫌なら、現地のことばを勉強して、しゃべれるようになればいいだろうに。現地のひともそっちのほうが嬉しいはずだ。それに英語というのはインドヨーロッパ語族の中の単一の特殊例に過ぎないわけでだから英語が苦手なことは言語が苦手なことを意味しないから現地の言語を学んでみれば意外と肌に合うかもしれなくて現にわたしはなんとか語となんとか語をやってるんだけどどっちも英語より簡単だしむしろなんでみんな英語なんてできるんだろうね不思議だよ俺も苦手だしあんなわけのわからん言語発音も文法も異常だしたとえばこんなところとか世界にも類を見ない特徴で……

 

……うるせぇ。そういう問題じゃあない。世界からひとが集まるなら英語を使う以外に方法はない。そんな世界になってしまった歴史に文句を言ったり、世界語を決める時期にたまたま強かっただけの大英帝国への恨みつらみを述べたりしたくなる気持ちはわたしだってわかる。世界語などというものが存在しない世界を望むなら、それもよかろう。けれど残念ながら、夢に逃げているようではいけない。現実は現実なのだから、ひとまず受け入れなければならない。

 

というわけで、海外では英語を避けては通れない。空港のアナウンスからインタビュー、ホテルのフロントから雑談まで。あらゆるところが英語で、つまりあらゆるところに障壁がある。一番よく使うことばは同意をあらわす「フフン」で、次は何度も繰り返すせいで使用頻度が水増しされる、聞き取れなかったことを意味する「パードン?」だ。

 

日本語ならそんな会話はしない。相槌にだって創意工夫を凝らすのが良い会話というものだ。だから英会話の最中、相手に話すがままにさせている自分にはわずかな引け目を感じる。この相手はわたしと話してなにが楽しいのだろう。なにか新しいことを持って帰ることなどありうるのだろうか。相手がわたしであることが、この場に何らかの影響を与えているだろうか。

 

まあ、でも。口惜しくても、できないものは仕方がない。だからこれからも海外に行くなら、わたしが英語ができないことに起因する微妙な空気に、耐えるすべを学ぶしかない。