過渡期の機械たちに

最強の棋士でも AI には勝てない。いまや疑いようのない事実として、そのテーゼはそこにある。囲碁では実際に対局が行われ、人類は残酷なまでに鮮やかな敗北を喫した。将棋は対局を拒み、結果として趨勢は、実際の戦いを経ないままに決定してしまった。みずからの敗北を芸術品にできるごくわずかな時期を逃してしまったかれらの決定を(あるいは、決定の先延ばしを)、わたしは残念に思ったものだ。

 

とはいえそれも数年前のことだ。囲碁や将棋やチェスやオセロといった完全情報ゲームで機械に勝てないということはもはや常識だけれど、最近まではそうではなかった。チェッカーは完全解析された。チェスとオセロはもう勝てない。将棋ではきっと、そろそろトッププロを超える。けれども囲碁は盤面が大きいから、まだまだかかるだろう。いまでこそ笑い話だが、当時はほんとうにそんな感じだったのだ。

 

プロの棋譜から学習した知能がプロを超えられるはずがないとか、AI には新手を創造できないとか。世の中の大半がそういう予想をずっと戦わせ続けてきていたのを、わたしはよく覚えている。それから考えると、常識とはずいぶん素早く変化するものだ。たった数年で、ひとは AI の評価値を信頼するようになった。

 

さて。とはいえそれはトップ層の話だ。わたしのような素人の態度にかかわる話ではない。社会を語るうえでは関係あるかもしれないが、対局する場合は関係ない。人間と機械、どちらがより強かろうが些細な問題だ。真剣勝負をすれば、どちらにせよわたしはこてんぱんにやられるだけなのだから。

 

わたしは二十六歳だ。将棋のルールは小学生のときに覚えた。当時はたしか、機械はプロのレベルになどとても達してはいなかった。おそらくはそこらの将棋教室にも、当時最強の AI に勝てる子供がいたことだろう。

 

けれどわたしは、AI に将棋で勝ったことはない。AI が人類を超えたのはつい数年前だけれど、わたしはとうの昔に超えられていた。というより、超えていなかった時期など最初からなかった。生まれたときからずっと、AI は強くあり続けていた。

 

だからわたしにとって、常識は不変だ。AI は強い、そんなのあたりまえじゃないか。負けただなんてなにを今更。勝てる兆しなんて一度もなかったくせに。

 

わたしより AI が強く、AI よりトッププロが強い。その時期はついに終わったけれど、それなりに長い期間だった。そしてその時期が長いのは、きっと将棋だけに限った話ではない。これからはきっとさまざまな分野で、わたしたちは負け続けることになるだろう。人類を超えたとはいまだ言われぬ、中途半端な機械たちに。