人間への期待

もっとも広い意味で AI を捉えるなら、世の中はすでに AI であふれかえっている。人間の代わりに現代の機械は色々なことを考えてくれるし、そしてそれは実際に役に立っている。例を挙げれば、乗換案内は AI だ。自動翻訳も間違いなく AI だし、それが人間の仕事を奪えるほど賢くなかろうが、AI と呼んでいい何かであることには疑いようがない。

 

さて。わたしたちはしかしながら、AI が具体的に何をできるかには詳しくない。身近にありながら、よくは知らない。それはもちろんそれが専門的な技術だからでもあるだろうし、あるいはあまりに進歩が高速すぎて、数年前の感覚がまるで役に立たなくなっているからでもあるだろう。でもとにかく、わたしたち一般人は AI をよく知らないはずだ。

 

しかしながら、知っていることもわたしたちにはある。というより、AI とはどういうものかについてのある種のイメージは、世間で広く共有されている。人間と機械を比較する古典的な文脈の延長線上にあるその認識は、最新の技術が示唆するものに影響を受けながら、じっくりと根を張っていく。

 

その最たるものが、AI は融通が効かないという考えだろう。機械は与えられた仕事を与えられた通りにこなすのが得意だが、柔軟性に欠ける。一方で人間は間違えるが、柔軟な対応でミスをカバーできる。AI が人間を置き換えるためにはそういう柔軟性を身につける必要があるが、現状の技術ではそれは難しい。逆にその課題が克服されたなら、そのときが新しい時代の幕開けだ。とまあ、そんな感じの観念だ。

 

それが正しい認識なのかはもちろん分からない。最近の画像系のタスクでは、AI はむしろ「与えられた仕事をこなす」ことの方を苦手にしているようにも見える。描くように指示されたものを奴らは描かず、その代わりにそれっぽい何かを描くのだ。「オレンジのジャケットの少女」という指示で、奴らは背景までオレンジ色にしてしまう。

 

しかしながら。AI に関するそういう認識が、人間社会を見る上で一定の示唆を与えてくれることもまた事実である。

 

オンラインのカスタマーセンターでの対応を例に考えてみよう。そこで最初わたしたちは、AI のチャットボットと話を通す。そんなことで解決するだろうとわたしは最初から思っていないし、実際に解決することはない。チャットを始める前から解決を諦めているのはもちろん、わざわざカスタマーセンターに連絡しようと思うような複雑な状況に AI が対応できるとは思わないからだ。

 

解決不能なことを一応確認すると、わたしは人間のオペレーターにつなぐ。そこでわたしは状況のすべてを話し、そして大抵の場合、解決する。それは人間に融通が効くことの証左ではある。しかしそれは、連絡して初めて分かったことではない。そもそもの初めから、わたしは人間に融通を効かせてもらうことを前提に行動していたわけだ。

 

これはある意味では AI への諦めだ。そしてある意味では、人間への期待でもある。きっとわたし以外もわたしと同じように、AI を諦めて人間に期待している。人間ならば、マニュアルに書かれていない状況にも対応してくれると信じている。そしてその期待に沿うために、人間は存在をやめられない。

 

AI と違って、人間は融通が効く。この認識の改められる日にわたしは来て欲しいし、きっとみんな、来て欲しいと願っているはずだ。けれどそうなるには、AI が実際に融通というものを覚えてからさらにそれなりの時間がかかるかもしれない。なにかを AI ができなかったとき、人間ならばできたかもしれないと期待するのを、人間はなかなかやめられないだろうからだ。