技術の禁止カード論争 ②

いまの AI イラストレーターを取り巻く状況はまさしくそれだろう。AI が出力したイラストが跋扈する時代、それらのサービスは具体的な人間の権利を侵害しそうな「気がする」。それでどんな仕事が人間から奪われるのかは分からないが、とにかく奪われそうな「気がする」。誰もが容易に、プロの意匠を模倣できる時代が訪れそうな「気がする」。そういう時代が来たとき、オリジナルであることが限りなく無価値に近づいてしまうような「気がする」。

 

そして現実とカードゲームの相違点は、その「気がする」こそが重要な問題になりうるということだ。

 

現実に運営はいない。暴れまわる技術を規制する、鶴の一声的な手段はない。法整備をすすめようとしても、現実に技術が根を張ってからではもう遅い。カードゲームの環境と違って、現実は荒れると人が死ぬ。だからひとは世の中に出回る新技術に、先手を打って気を付けておかなければならない。具体的な脅威ではなく、脅威がある「気がする」ということに目を光らせていなければならない。倫理とはそういう考え方だ。

 

けれど同時に、それが杞憂に過ぎないかもしれないということもまた、懸念されることのひとつである。

 

カードゲームの運営はなぜわざわざ、悪用されるかもしれないと分かっているカードを刷ろうと思うのか。念入りな調整のコストをかけてまで、そんなリスクのある行動を取ろうと思うのか。もちろん、それが好きなひとがいるからである。それは運営内部に好むひとがいるという意味でもあるし、ユーザーが好むという意味でもある。カードゲームとは、ルールで許されるすべてのことが許される遊びだ。カードを組合わせてなにか悪いことをするというのは、カードゲームにおける自己表現の手段のひとつなのだ。

 

同じように技術にもまた、それを好きなひとがいる。現実を荒らすことはカードゲームの環境を荒らすことに比べてはるかに被害が大きいけれど、新技術にはそのリスクを負うだけの価値がある。カードゲーマーがカードに夢を見るようにわたしたちは技術に夢を見るし、多少の被害の可能性があろうが、夢のある世界のほうが面白い。

 

「気がする」だけで技術を規制することは、きっと正当だ。具体的な証拠を待っていては無法地帯と化してしまう。「悪用されそう」と単に騒いでいるひとたちを見て、「じゃあ具体的には何が起こるんですか」とわたしは訊ねたくなるけれども、答えが返ってこなかったとてそれは技術の免罪符にはならない。

 

けれど、「気がする」はあくまで「気がする」だ。ふたを開けてみれば技術は全然悪用されないかもしれないし、悪用されたとしても被害は軽微かもしれない。危険な「気がする」という意見にすべてを任せるのは、過剰なまでに面白みに欠ける。

 

悪用されそうなカードが実際に悪用されることはある。けれど、環境のトップにまで上り詰めることは多くない。そういう普通のケースで、悪用されているカードは単に、野放しにされる。野放しにしても大丈夫だからだ。

 

悪用されているカードが野放しにされていい理由。それは倫理や感情の問題ではなく、正々堂々と戦った方が強いという、単純な実力の問題なのだ。そしてそれは、現実世界にだって適用されうる理由だろう。ちょっとばかり悪用されたところで、それでも勝てばいいのだ。