かわいそうの比較 ①

凄惨な事件があった。秘密裏に済まされるような事件ではなかったし、難しいトリックがあるわけでもなかったから、ことの真相はすぐに明らかになった。メディアの利害にかかわるような事件でもなかったから、犠牲者の情報はすぐに、全国民の知ることになった。

 

たくさんのひとが死んだ。けれどもだれもが着目したのは、そのリストの中に小さな子供がいたことだった。まだ自我すら芽生えていないほどに、小さな子供の死。そのことが日本中のお茶の間に、事件の悲惨さを印象付けた。

 

こういうことはたまに起こる。たまに起こるのだから、たまに報じられる。報じられるのだから、わたしたちにはこういう報道を見た経験がある。犠牲者には老若男女あらゆるひとがいたとして、かれらは平等には扱われない。だれかの犠牲に対し、それがひとに与える印象の力というものをかりに定義できるのだとすれば、幼児の死とはつまり、最強の死だ。そう感じるように、どうやらひとはできている。

 

それが間違いだと言うつもりはない。たしかに、命の価値は平等だとは広く言われていることだ。けれどその議論が、子供の命の価値を矮小化するために用いられているところをわたしは見たことがない。見たいとももちろん思わない。つまるところ平等性とは、劣っているとみなされがちなひとびとを守るためにある概念なのだ。もともと優位なものを、わざわざ引きずりおろす必要はない。

 

子供の命には、大人のものより高い価値がある。命の選択を嫌うひとでも基本、この命題は受け入れている。子供の死はかわいそうだという価値観は裏返せば、大人の死はそれほどでもないという価値観になるわけだけれど、わたしたちはそういうことを言っているわけではないのだ。大人の死は悼む、子供の死はもっと悼む。そうするのが正しい態度だと、みんな思っているわけだ。

 

わたしたちは言う。大人の死だって重要だ、だから悼んでいるじゃあないか。けれど子供が死んだとき、きみがもし大人の死に向けるのと同程度の共感しか示さないのであれば、きみはひとでなしということになる。だってきみには……小さい子供への悲劇を、かわいそうだと思う心がないからだ。そうだろう?

 

冷静に考えれば、なかなかに都合のいい論理だとは思う。一方を上げれば、相対的にもう片方が下がる、その事実をスルーするのは難しい。そして残念なことに、悲しみなんていうものはどこまで行っても相対的なものなのだ。

 

もちろんそんなことにはみな気づいている。気づかずにいるのは難しい。気づいたうえで悲しんだり、怒ったりしている。子供の死をより哀れに思うことが命の価値を差別することだと知っているのにもかかわらず、それでも目の前のかわいそうを優先する。どうしてそんなことをするのだろうと問うのは、不自然なことだろうか。冒涜的なことでは……まああるとして。