かわいそうの比較 ③

大人の死を、わたしたちは受け入れられる。つらい出来事とはいえ、折り合いをつけられる。とくにその情報が、特に個人的なかかわりのない人物の訃報だったのなら、ひとはきっと興味も持たないだろう。「ひとりの人間が死んだ」という統計情報以上の価値を、かれらの死は持ちえないだろう。

 

けれど子供の死は話が違う。赤の他人の死でも、その子がまだ幼いというだけで、たくさんのひとが興味を持つ。そしてまるで自分のことのように、その死を悲しむ。それを証拠に、難病の子供の死とはいつも、不条理と感動のドキュメンタリーの題材になる。見知らぬ赤ちゃんの手術代に、たくさんの募金が集まる。

 

そのときわたしたちは、なにを感じているのだろう。子供の死と大人の死の間にはなんらかの違いがある、けれどそれは具体的になんなのだろう。子供に降りかかった不治の病をこの世の不条理と感じるのに、大人に同じ病が降りかかってもたいしてなにも感じないのには、どういう仕掛けがあるのだろう。

 

その問いに説明を与えようとしても、なかなかうまくはいかない。子供には大人とは違って未来があるという意見には、死ぬと決まっているならどちらも同じだと反論できる。子供には可能性があるという意見は、大人の一部はものすごく優秀で、平均的な子供は一生かかってもかれらの域には達しえないだろうという事実に矛盾する。子供はみずからの死を受け入れられないという意見には、大人だってそうだと言い返せる。そしてそれ以上に、まだ死という概念を知らない乳児ならば、死んでもまったくかわいそうではないのかとも。「理屈ではない。とにかく、かわいそうだと感じる」――雑な説明。だけれど、それを上回るものはおそらく、ないように思う。

 

けれど。いま提示した論理の限界は、普遍的な説明の困難性を示しているだけだ。子供が死ぬのはかわいそうだという一般的な価値観をすべて綺麗に説明し尽くす、そういう論理はないのだと。もし説明せねばならぬものが、あくまで個々人の価値観なのだとしたら。納得のいく説明は、きっとある。

 

子供の死はべつにかわいそうではない。あらゆる年齢の人命には等しく価値がある。その価値観はもっとも道徳的であり、同時にもっとも残虐だ。多くのひとは道徳的でも残虐でもないから、その価値観を受け入れない。けれど中には、そういうひともいてもいい。いや。きっといるだろう。そしてここまでのわたしの議論を、鼻で笑っていることだろう。人命に価値の違いなんてないのに、なにをわざわざ話すことがある? 説明が不可能だなんて、どうして言うんだ? 全員の価値が同じであること以上に、明快な説明があるだろうか?