素直になれ

たくさんのカメラが一点を凝視し、フラッシュライトがまばゆく降り注ぐ。満員の球場のお立ち台で、あるいは巨大な会見場で。観客が、記者が、テレビの向こうの無数の観衆が気にしているのは、ひとりのスポーツ選手。大きななにかを成し遂げた者の晴れがましい笑顔を浮かべて、彼はそこにいる。筋肉質の両肩を姿勢よく張って、偉業の余韻をまとわせている。

 

「応援してくれたファンの皆様のおかげで勝つことが出来ました」記者の質問に、彼はそう答える。相変わらず繰り返されるフラッシュライトの嵐。当たり障りのない答え。あらかじめ用意していたような……いや、あらかじめ用意していなかったからこそ、これしか出てこなかったというような答え。それは間違いなくその場にふさわしい答えだ。空気を乱さない答えだ。普段の状況なら、やもするとそれは最善の答えだったかもしれない。けれどいまはそうではない。こうした晴れの場にあっては、およそどんな答えだって素晴らしい答えとして扱われるのだ。彼のたったいま成し遂げた偉業は、彼のことばの価値をも否応なしに高めてしまうのだから。

 

「ファンの皆様のおかげ」――そう聞いて、わたしたちは思う。もっと自分を出してもいいのに。せっかくことを成したのだから、いまくらい自分の思っていることを素直に言えばいいのに。およそどんなことばも受け入れる準備が、すでにわたしたちには整っている。だから思うがままにことばをぶつけて欲しい、と。

 

……いや。それはちょっと、観衆というものを美化しすぎかもしれない。

 

わたしたちは厚かましい。だからそもそも、選手に権利など認めていない。わたしたちは彼らが、頂点で何を感じたかを知りたい。ことばを通じて、頂点からの景色を見せてもらいたい。わたしたちは「素直になっていい」と、それがあたかも選手の権利であるかのように言うけれど。素直にぶちまけたいという願望を選手が持っていると、最初から仮定して話を進めるけれど。わたしたちがしているのは、許容ではなく強制なのだ。お前が見ている景色を俺たちにも見せろという、強欲で傲慢な要求なのだ。

 

だからこそわたしたちは、考えるまでもなく決めつける。「ファンの皆様のおかげ」はただのきれいごとで、その裏に間違いなくなにかがあるのだと。彼の見ている世界にはきっと彼にしか見えていない世界があると、そしてそれはファンへの感謝などというありきたりな感情では断じてないのだと、わたしたちはさも知っているようにふるまい、求める。けれどもし本当に、頂点で感じるものがファンへの感謝などであったとしたなら。わたしたちはいったい、なにを信じなければならないのだろう?

 

もしかするとそれは絶望かもしれない。なにかを成した人物には、きっと凡人には思い至りえない思想があるという期待。ありきたりな感情を、彼らはすでに通り越してるはずだという幻想。わたしたちに想像できる態度を彼らが持っていたとき、それらは完全に崩れ去ってしまう。