綺麗ごとの空間

満員の球場が興奮に揺れている。ついいましがた、九回裏の四番の打席。振りぬいたバットから放たれたボールはぐんぐんと伸びてゆき、バックスクリーンに突き刺さる。歓喜の輪に包まれる中でホームベースを踏む足また足を、スコアボードに刻まれるバツ印を、もはや観客はろくに見ていない。みな思い思いに我を忘れ、ことばにもならない雄叫びを上げている。

 

テレビの前の観客はもう少し冷静だ。ビールを手にした男はソファから立ち上がり、かろうじてグラスを置くと両手を突き上げる。実況の絶叫が居間に響き、足踏みの音がそれに加わる。男はしばらくそのまま立っていたが、打った選手にボトルの水がかけられる頃になると座り、飲みかけのビールに手をかける。そして、一気にグラスを空ける。

 

興奮が興奮の余韻へと変化したころ、球場には演台が設営される。そして呼ばれる、誰もが予期していたひとつの名前。現地では声援にかき消されて、ろくに聞こえない声。けれどテレビからは、明確に聞こえる声。アナウンスの声が流れる。「今日のヒーローはもちろんこのひと、九回裏、サヨナラホームランの……」

 

「ファンの皆様の応援のおかげで打つことが出来ました」そう選手は答え、球場は湧く。彼らの大部分は、実際に選手がなにを言ったのかになんて全然気を払ってはいなくて。この劇的な幕切れへと導いた張本人がなにかを言っている、その事実だけでもう、彼らを騒がせるには十分だった。興奮の余韻に浸かり続けたい幸福な観衆。どんなに当たり障りのない、どんなに形どおりの返答だって、彼らには至高の福音に聞こえる。

 

興奮の渦中でも、観衆はきっと選手の台詞を信じ切っているわけではない。そもそもの話、ろくに聞いてなんかいないのだから。わたしたちはスポーツ選手に対してある種の偏見を持っている――なにを聞かれても、彼らは「ファンのおかげ」と答える。あるいは、「子供たちに夢を与えられるようなプレイを」。そして十中八九、彼らはそんなことを実際に考えてなどいないのだろうと推測している。判で押したように彼らがそう答えるのは、単にそういう返答がすべての面倒な質問を解決してくれるからに過ぎないのだと半ば確信している。

 

きっとそれは、そう誤った推測ではないのだろう。選手が上手いのは選手の努力と才能の賜物であって、ファンが応援したからではない。選手がスポーツをするのは自分の理想か楽しさかあるいは金のためであり、見知らぬちびっこの夢のためではない。そういう綺麗な要素は、たしかに一片の真実を捕らえているかもしれないとはいえ、けっして第一の行動原理にはなりえない。選手だってひとりの人間であり……そして人間とは、もっと下世話なものだろう?

 

けれどそういうことをすべて理解したうえで、わたしたちは球場で歓声を上げる。すくなくとも応援してくれている皆さまではあるという事実に酔い、ともに喜ぶ。そこにはきっと、綺麗ごとでしか作り出せない空間が広がっている。