好き嫌い以外の価値

いったいわたしという人間は、なにをやりたいとおもうのだろう。なにをやっているときが楽しくて、なにをやっているときにつまらなく思うのだろう。遊びや研究や勉強やスポーツ、それらのうちのどういう要素が好きで、どういう要素が嫌いなんだろう。好きな要素だけを摂取して生きていくためには、わたしはどうすればいいのだろう。

 

思えばわたしがこれまで考えてきたのは、ほとんどそういう好き嫌いの問題についてのことなようだ。実際、わたしが遊びの予定を入れたり仕事を受けたりするとして、最初に吟味するのはいつもその点だ。わたしが楽しめそうかどうか。あるいは、それをしている自分を受け入れられそうかどうか。実際にそれを好きになれるかどうかはやってみないと分からないけれど、やる前にするひととおりの判断としては、そう。

 

わたしがわたしを知ろうと試みるのはきっとそのためだ。わたしがなにを好きになるのかということが精度よくわかったならば、わたしは楽しいことだけをやって生きていける。そして精度を上げるための根拠はふたつしかない。実際の経験と、それにもとづく自己洞察。自分がこれまでどういう状況でなにを感じたのかを分析し、その結果を未知なる状況へと適用する。

 

さて。しかしながらそれを、自分自身への理解だと呼ぶのは早計かもしれない。というのもわたしが集中しているのは、わたしがなにを好きになりなにを嫌いになるかというその一点にすぎないからだ。ほかのあらゆる点――自分の価値だとか社会のなかでの立ち位置だとか――に関して、わたしはきっと驚くほど無頓着だ。きっとと言ったのは、そういうことを真剣に考える人生がどのようなものであるかを、わたしが想像すらできないからに他ならない。

 

そしてそういう、わたしがまったく考えないようなことに重きを置いている人間から見れば、わたしはおそらくとんでもなく薄っぺらな人間に見えることだろう。

 

……べつに弁明するつもりはない。事実、そうなのだから。例えば自分を社会の幸福のためにどう役立てるかと聞かれれば、わたしはきっと、口ごもるだけ口ごもってそれでおしまいだから。むろんわたしは、わたし自身が社会の役に立つべきだとはまったく思わない。けれど思わないことはべつに、考えたことがないという事実を正当化してはくれない。薄っぺらなものに、厚みをもたらしてはくれないのだ。

 

とはいえ別に、そういうことを考えたいとは思わない。わたしが誰かの役に立つかとか、わたしにどういう資産価値があるのかとか、あとはあまりに考えたことがないせいで、例をあげてみることすらかなわない重要な問題の数々を。時間と気力、その貴重なリソースをそういう思考に割くくらいなら、わたしはべつに薄っぺらで構わない。

 

そう。興味がないことはやらないほうがいいということは、誰かにつられてやってみても全然身にならないということに関しては……わたしは、よく知っているのだ。