すぐそこの先端で

何年か前のわたしは、研究の最先端とはきっとはるかなる高みなのだと思っていた。人類の知識の限界を押し広げるにはまず限界までたどり着かねばならず、したがって研究を始めるにあたっては、とてつもない量の勉強が必要だと信じ込んでいた。そしてその量の勉強を、わたしが無事に続けられるか心配だった。スタートラインに立つため必要な努力、明確な結果としては絶対にあらわれないものへの努力に、わたしが耐えられるとは思わなかった。

 

今にして思えば、馬鹿な悩みであった。最先端と呼ばれるものの一部は確かに、はるかなる勉強の先にそびえているかもしれない。けれどべつに、すべての先端がそうなわけでもない。気の遠くなるような勉強を求められるのが嫌なら、単にそれほど勉強する必要のない分野を選べばいいだけだった。つまるところ最先端とは、そこに至る道のりの長さによって定義されるわけではない。人類がまだやったことがないことなら、なんでも最先端なのだ。

 

というわけでろくに勉強もせず、わたしは研究をやっている。勉強しなくてもどうにかなっている。わたしが登れる気がしなかった高みに登っているひとはいるし、そこで実際に人類の知識の限界を押し広げているらしきひとだって身の回りにいるけれど……必ずしも、彼らの真似をする必要はない。難しい道具を使わなくても研究はできるし、高校生でもできる数学をやっているだけで論文は書ける。そしてそれが、ちゃんと名の知れた会議に通るわけだ。

 

さて。ひとはいくらでも図々しくなれるもので、最近ではもう不安はなくなった。勉強が必要な研究をするのはべつに義務ではないし、とくに憧れだってしない。憧れもしない研究をするためにわざわざ勉強するのは物好きのやることで、わたしはそんな物好きでも、ましてやマゾヒストでもない。そもそも、高いところにいるから偉いわけですらない。彼らの研究は確かに、そうやって勉強を続けた彼らにしかできない研究だろう。けれどその事実はべつに彼ら自身の行動を正当化する理由にはならないし、ましてやわたしがそうならねばならぬ理由はどこにもない。

 

……という感じでまあ、負け惜しみとも呼べる理屈をわたしは並べ立てる。

 

良く言えばわたしは、きっと生きるのが上手だ。大巨人の肩に乗るための旅に出向こうともしないというのはおそらくわたしのコンプレックスなのだろうけれど、それに執着しない程度には身の程を知っている。けれど研究者とは、夢追い人として定義される集団だ。自分がなにを研究するかで現実的な選択をしてしまうわたしは、だからきっと研究者とは呼べない。