人間のせい

南太平洋の海底に巨大な火山がある。死火山にも見えるそれはじつは活きていて、だいたい一千万年に一度、とてつもなく大きなエネルギーを放出する。といってもそれは海底深くにあるから、わたしたちの想像するような急激な噴火ではない。エネルギーは百年ほどをかけてゆっくりと放出され……付近の海水温を、そして地球の表面全体をあたためる。

 

以上はもちろん、わたしがいまでっちあげた出まかせである。わたしは火山活動の専門家でもなければ、地球の神秘を追い求めるマニアでもない。この説明はおそらく地学的にあり得ないことを言っているだろうけれど、どこがどう間違っているのかを説明する能力はわたしにはない。そしてまずありえないと思うが、万が一……以上のような馬鹿げた現象が起こりうるのだとしても、わたしがそれを言い当てたことは単なる偶然に過ぎない。

 

まあ、地学的な正しさの話なんてどうでもよくて。これを使って、ちょっと思考実験でもしてみよう。もし地球の温暖化の原因が人類の活動ではなくさっき述べたような馬鹿げた現象で、しかも人類がそう知っていたのだとしたら。人類が二酸化炭素を出すせいで地球が温まるだなんて説のほうがむしろ、ふざけた極論に過ぎない世界だったのなら。その世界で、この現象に人類はどう反応していただろうか。

 

わたしたち一市民の活動は、おそらくだいたい同じように行われる。エアコンや車がエコを謳ったりレジ袋が有料になったりストローが紙になったりはしないだろうけれど、それ以外の部分は、という意味だ。現代の環境問題とはしょせんわたしたちの社会を構成するひとつの要素に過ぎないのであって、活動家が目立ったりひとが製品を見る目が変わったりはするとはいっても、社会を根幹から変えてしまうものではない。

 

そして実際に起こっていることは――つまり、地表面の温度がだんだん上がってきているという結果に関しては――そう、まったく変わらない。そして起こることが変わらない以上世の中の仕組みは変わらない。環境問題は依然として問題であり、人間のせいだろうと地球のせいだろうと関係なく、南極の氷は解けてツバルは沈む。ツバルが沈むとツバル人が困るという厳然たる事実に、それが人類活動の帰結かどうかなんて関係ない。

 

しかしわたしたちはきっと、その問題をまったく違った問題と受け止める。

 

わたしたちはそれを受け入れるかもしれない。人類が手を取り合ったところでどうしようもない問題として、なるがままに任せるかもしれない。どうやって温暖化を止めるかではなく、温暖化したあとをどう生きるかに努力の大部分を割くかもしれない。

 

あるいは温暖化を、地球から人類への挑戦状だととらえるかもしれない。そしてその挑戦に応えるべく、研究を進めるかもしれない。どうすれば地下に眠る莫大なエネルギーを鎮静化できるか。どうすれば、地表そのものを冷却できるか。

 

その世界ははたして、いまの世界と比べて良いものか、悪いものか。なにかが人類の責任であるというのは、人類への呪いか救済か。その判断はひとによるだろうけれど、わたしはべつにどちらでもいい。