単純作業

昔からわたしは単純作業が好きだ。頭をからっぽにしてただただ手を動かし続け、完成品の山が出来上がっていくのを眺めるのは爽快だ。自然と最適化されていく自分の動き、身体にしっくりと当てはまる動作をひたすらに繰り返しているときの気持ちは、もはや清々しいと呼んでもいい。その日のその作業が終わればもう一生役に立つはずのない特殊な技術を極めつくすという壮大な無駄を、わたしは存分に楽しんでいる。

 

けれど単純作業とはめったに発生しない。作業がただの作業ではなく単純作業と呼べる物であるためには一切の思考が廃されていなければならないわけだけれど、残念なことにたいていの物事には思考が必要なのだ。途中で細かい調整が挟まるとか、使っていた道具を頻繁に交換する必要があるとか、誰かの話を聞いて仕様を変える必要があるとか、いろいろな原因で。そして単純ではない、細かくなにかを考えながらしなければならない作業のほうを、わたしは嫌っている。

 

作業が単純作業ではなくなるいちばんの原因はきっと、局所と全体のつながりにある。すなわち、作業という手段がその目的からじゅうぶんに切り離されていない場合だ。全体工程という目的と、作業という局所的な手段。その作業が単純であるためには、何も考えずにできる作業であるためには、その作業だけに集中できなければならない。作業の上にどんな全体工程があっても、断じてそれに想いを馳せさせるものではいけない。単純作業は、あくまで単純作業だけで完結していなければならないわけだ。

 

そう考えれば、単純作業とはむしろシステム化の到達点だろう。全体の目的を達成するために、困難を極限まで分割した形態。分割してできたものが単純であればあるほど、システムは上手くできていると言える。分割の結果が単純作業ならば、つまりほかの何事も気にしなくていい作業であるならば、それは間違いなくシステムの勝利だ。

 

そういうシステムを組む側に回るか、その上で働く側に回るか。前者は思考が仕事であり、後者は思考しないことが仕事。それらは両極端にあるように見えるけれど、わたしはそのどちらも好きだ。嫌いなのは中途半端――作業をする立場なのに、ほかのことを気にする必要に駆られる立場。システムがダメだと分かっているのに、それを変えられはしない立場だ。

 

なるほどわたしの嫌いなのは、馬鹿なシステムなのかもしれない。わたしはこれをやりましたとはっきり言うことのできない、下手くそな仕事の割り振り。そういう意味で、わたしが考えたいのは実は、考えないで済む方法なのかもしれない。