教養と必要

最高の勉強とは何かと聞かれれば、なににも役立てる予定のない勉強のことだ、とわたしは答えるだろう。勉強それ自体の喜びとは新しい知識もしくはメタ知識を得ることそのものにあるわけで、それを純粋に楽しみたいのであれば、みずからの知的好奇心を満足させるということ一点のみに力点を置いていなければならない。そして目的のある勉強では、そんなことはできない。好奇心が実用での必要性に上書きされるからだ。

 

これはおそらくわたしだけの意見ではない。わたしはわたしの知らない誰かが、「学んだ先からすべて忘れて、なおそれでいいと思える勉強がよいのだ」と言っているのを聞いたことがあるし、それはまったくその通りだと思う。大学の教養課程なるものはその点ですこぶる優秀で、あの新鮮な場所で学んだほとんどすべてのことは、忘れてしまったところで何の問題もないわけだ。いや、何の問題もないからこそ、それは教養と呼ばれるのだ。

 

さて。しかしながらべつに、目的もなく学んだものをなにかの役にたててはいけないという法はない。当時は純粋な好奇心で学んだけれど、人生のステージを進めるにあたってそれが役に立つことがわかった……なんていうのはそれなりによくある話で、そして同時に、きわめて喜ばしいことだ。過去のある時期に単に娯楽としての目的で学んでいたなにかが、巡り巡って何かの役に立つこと。教養とはそういう目的で身につけるものではないはずだが、システムレベルではそういう偶然が想定されているらしきことも、また事実である。

 

だがわたしたちは、学んだ内容をすぐに忘れる。教養が教養である間はそれで一向に構わないわけだが、なにかの拍子にそれを役立てなければならなくなったとき、わたしたちは再び勉強しなければならない。その勉強は、一度も聞いたことのない分野を学ぶよりもはるかに簡単なものにはなるだろうとはいえ、勉強のための勉強ではない。なにかに役立てるという目的を持ち、実用での必要性が原動力となる、応用のための勉強である。

 

教養の悲しき点がそこにある。正確に言えば、教養を身につけさせるためのシステムの悲しき点、と言おうか。大学の教養課程は楽しいものだ、それを純粋に娯楽ととらえて、自分を成長させるための機会だと思わなければ。しかしながら教養を提供する側は、ただ学生の娯楽に供するためにやっているわけではない。与えた知識、なんの役にも立たなさそうに見える知識が、回りまわって何らかの役に立つ日を期待しているわけだ。彼らの期待が満たされなければ、学生たちには幸せだけが残る。だが満たされた日には、学生は必要性からの勉強という、教養的でないいとなみに身を投じてしまうわけだ。