クイズと教養

わたしはクイズの素人だ。素人というのはべつに謙遜して言っているわけではなく、とくにそのための練習をしていないという意味だ。わたしの実力については、レーティングのように明確な数値として出せる基準をクイズ界は(たぶん)持ち合わせていないから分からないが……まあ、素人かどうかとは関係ない。取り組んでいないからこそ、素人なのだ。

 

もしかりにその状態のわたしが、同じく素人の誰かにクイズで完敗したとしよう。そのときに競われているのは純粋な地力、クイズを解くということに関していつの間にか身についていた能力の違いだ。それはあくまでクイズに関する能力であって、なくても人生を否定されるような類のものではないのだが……それはさておき、あったほうが嬉しいのが能力というものの普遍的な性質だ。

 

素人がクイズを解く能力を一言で表すなら、そのことばは「教養」かもしれない。きわめて雑なカテゴライズ、そんなふうに教養を定義しては多方面から怒られるような気もするが、具体的に誰から怒られるのかは分からないからそう呼んでしまおう。わたしたちが戦わせているのはありのままの知識、これまでの人生を通じて蓄え続けてきた、経験の豊かさなのだ。

 

さて。とはいえ教養の使い道はクイズだけではない。クイズはたしかに一番分かりやすい応用先かもしれないが、教養はそれだけのためのものではない。教養は競うためのものではないとよく言われるし、クイズが他人と競うものでしかありえない以上、クイズに勝てるようになることはあくまで教養の副次的な効果に過ぎない。きっと、そのはずだ。

 

さあ、では具体的にそれはなんだろう。

 

教養は人生を豊かにするとよく言われる。実際に豊かになったと感じられることはよくあり、たとえば旅先でなにかを見たり誰かとなにかを話したりして出てきた発想を振り返ってみると、特定の知識がなければとうてい不可能な発想だったと気づかされたりする。その知識がどうして身についたのかは思い出せることもあれば思い出せないこともあるけれど、それが学校で指導要領どおりに叩き込まれたものではないことだけは確かだということはある。そして自分にある知識がないゆえに発想できなかったさまざまなことが、水面下にたくさん横たわっていることも容易に想像できる。

 

けれどおそらく。教養でできることはそのくらいだ。たまに知識と知識がつながり、少しだけ嬉しい気持ちになる。それを得るために仮に勉強が必要だったとすれば、とうてい割に合わない程度のささやかな喜び。それで以上だろう、きっと……

 

ああ、そう考えれば、クイズというのも意外と悪くない応用先かもしれない。クイズでの勝利とは教養の、案外本質的な側面かもしれない。ほかの方法で教養が役に立ったときと同じように、クイズに答えられたら嬉しいのだから。