議論の加速

新技術であるところの絵画 AI はいま、各所で喧々諤々の議論を巻き起こしている。やれシンギュラリティの幕開けだとか調子のいいことを言うひともいれば、人間には創造性があるという主張をもって、AI はまだまだだと叫ぶひともいる。現状の AI をどのように使おうかとさまざまな想いをめぐらせているひともいるし、はんたいに AI が市場を席巻した結果として、人間のイラストレーターの将来的に置かれるであろう地位を危惧しているひとびともいる。

 

けれどそれらの議論の大抵は、すでに使い古されたものにも見える。それは別に話の進むスピードが速くてすぐに陳腐化してしまうとかそういう意味ではなく、単に前から議論されていたことの焼き直しに過ぎないという意味だ。あの AI たちが出現される前から可能性としては語られていたことが、あの AI が現れて急に現実味を帯びた。現実味を帯びたからこそ、みんながそのことに言及し始めた。それだけの話である。

 

さて。ではひとびとをそこまで衝き動かしたものはいったいなんなのか。SF 的妄想の中の問題だったものが、急に喫緊の課題に見えるようになったのはなぜか。大きな進化を遂げたとはいえまだ目に見えて欠点のあるあの AI たちが、急に現実を脅かし始めたように見えるのはなぜだろうか。AI が絵を描くという、これまでだって簡単に想像できていたはずの未来が、急に必ず訪れる未来かのように認識され始めたのはいったいどうしてだろうか。

 

もちろんそれは、AI の絵がある程度「上手く」なったことだろう。AI は地道な進歩を進め、そしてようやく、社会変革の引き金を引けるのだとひとが認識するレベルにまでたどり着いた。「上手い」と「上手くない」の境界線がどこにあるのかはさておき、とにかく AI は閾値を超えた。超えたと、ひとは考えた。

 

そしてその閾値なるものがあくまで人間の感じ取り方の問題でしかありえない以上、社会の倫理はきっと、AI の進歩から独立して発展してゆく。

 

絵画というものがおそらく高度に知的なプロセス抜きに生成されうるという事実に、ショックを受けているひとは多い。絵描きかそうでないかという二項対立が、根底から瓦解することに危機感を覚えるひとも多い。そういう問題のすべてが、可能性としては最初から分かっていたことであるにも関わらず、ひとは心を乱される。心を乱されるかもしれないことをあらかじめ予測して準備しておくことは、十分にできたはずなのにも関わらず。

 

おそらくこれからも、さまざまな倫理的議論がなされるだろう。それを進めるだけのレベルに、AI は達している。けれど議論が始まってしまえば、今度は逆に技術のほうがついていけるとは限らない。社会はもしかすると、技術に先回りしてしまうかもしれない。

 

その意味で、AI はすでに仕事を終えたわけだ。社会を変える、という大仕事を。