議論のなかでの人格、議論のそとでの人格

建設的な議論とは自由な議論のことだが、現実の議論のおおくはまったく自由ではない。ほとんどの議論は互いの有利不利を決めるために行われるものであり、そのかなりの割合で、互いの後ろには無視できない勢力がついている。議論の矢面に立つ人間の目標の大部分はその勢力の意志を満足させることであり、個人の論理的満足は基本的に二の次だ。建設的な会合とは相互理解のもとに集結する会合であるが……残念ながら、会合は建設的であればいいというものではない。その場所で実際に論理を戦わせているふたりの経験の質は、より大きな利害の衝突の中ではまったく意味をなさない。

 

議論という行為そのものを愛する一部の変態ども以外にとって、議論とはそういうものである。だから世の中には、ディベートというゲームが成立する。そこで行われる議論は、自由さという意味ではまったく満足のいかない代物だが、だからこそそれはゲームなのだ。互いに持つべき意見を決められ、その意見に合致する論証以外は行ってはならず、目指すべきものは円満な妥結ではなく……それゆえに、勝ちと負けとが存在するれっきとしたゲームだ。

 

惜しむらくは、ゲームならばもっと現実離れした問題を扱ってくれればとわたしは思う。ディベートなるものは常々、現実の微妙な問題について議論させようとしてくるが、本来そんな必要はないはずなのだ。ディベートが扱うような問題に、わたしたちは日頃から意見を持つように求められているか、あるいは実際に意見を持っている。そのうえで人前で語らないようにしている事柄について、ゲームとはいえ議論を求めるのはすこし……そうだな、デリカシーに欠ける、とでも言えばいいだろうか。

 

議論のお作法に従って、予想される反論でも書いてみることにしよう。ディベートとはあくまでロール・プレイングであって、その最中の発言内容は、実際のそのひとの思想とは無関係だ。プレイヤーは自分の思想を語ってもいいし、逆にそれを真っ向から否定して、正反対の態度を取ったっていい。役割はあくまでゲームのルールであって、そのゲームは外の世界から完全に切り離された箱庭だ。ゲームの中で何者であるかは、実際にそのひとが何者なのかを一切規定するものではない……うんぬんかんぬん。

 

もちろん、そんなことは知っている。ファンタジーのゲームをプレイしてもわたしが光の勇者にならないのと同じように、ディベートをプレイしても、わたしは左翼あるいは右翼の活動家にはならない。しかしながら、ひとが口から出すことばには、単なるゲームで済ますことのできない責任感というか、引け目というか……とにかく呪術的ななんらかが宿っているような気がするのは、考えすぎだろうか? ゲームのなかでの発言だとわかっていても、口にすればなにかが永久に壊れてしまうタイプのものがあるように思うのは、少々繊細が過ぎるだろうか?

 

なんらかの意味ではわたしはまったく正しいだろうし、また別の何らかの意味では、わたしは公私の切り分けができていないのだろう。これはわたしの感性の問題だが、だからといって、それは誰にも否定できないのだという強すぎる論理に依存する気はない。それでもわたしはわたしを完全に否定する気にもなれないから、その問題に対する判断を、わたしはいったん保留することにしておこう。