ルールへのリスペクト、換言、権威主義

科学者とはとにかく、なんだってルールを決めなければ気が済まない生き物だ。科学の信頼性のために必要不可欠なことや彼らがそう信じ込んでいることについてはもちろん、やれ引用の書き方はこうだとかこの事例は何々の研究倫理に違反しているだとか、偏執癖はそんなところにだって発揮される。その手の習性は科学者たちの身に染み込んでいるから、ものごとが面倒になるのは必然だと言っていい。

 

そんなものは無駄だと誰かが指摘したところで、もちろんろくな効果はない。科学者が従っていると自称するところの論理性にその指摘が基づいていたところで、だ。というのも彼らの過剰な心配性はたいてい、論理ではない部分に根差している。そして科学者とは世の中で最も屁理屈が上手な部類の人間であるから、自説を補強するそれらしき理由を用意して反論するだろうし、悪ければ彼ら自身でも、彼らの作り出した屁理屈にはまり込んでしまう。要するに論理は説得には向かないという真理は、科学者相手だって変わりはないわけだ。

 

さらに科学には権威主義がある。科学者たち自身がよくリスペクトと称しているそれは、先人たちの作った歴史を、正の側面も負の側面も全部ひっくるめてそっくりそのまま受け入れることだと定義できるだろう。歴史の上に新たなものを建てるぶんには一向に構わないが、歴史そのものを崩そうと試みてはいけない。

 

容易に想像できるように、そのことは一度決めたルールをより強固なものにする。ルールを作るのは簡単で、けれど壊すのは難しいわけだ。

 

さて。自然科学的な態度なるものについても科学者たちは、もちろんルールを用意している。簡単に言うなら、それは以下のようになる――正しい手続きで行われた実験や、正しさの保証された論理技法から導かれる結果を科学者は信じる。言い換えるならそれは、一切の固定観念を捨てるということでもある。正当な手続きに基づく大いなる科学がそう言うのであれば、科学者は無条件に従わなければならない。

 

もちろんそれはポジショントークである。科学者ほど固定観念にまみれた集団はむしろ、なかなか存在しないだろう。その固定観念は、超常現象をはじめとする、科学ではとうてい解決できなさそうな問題を取り扱うときに現れる。自然科学のルールに基づけば科学者たちはそれらに中立であるべきだが、実態は知っての通りそうではない。科学はなんの留保もなく、ただそれらの存在を頭ごなしに否定するわけだ。超常現象が存在するとわたしが思っているわけではないし、存在する可能性を考慮することが常識的に正当であるとも思わない。けれど少なくとも、その態度は科学者が定義する意味での「科学的」態度ではない。

 

「科学的」でない科学者が悪人だと、必ずしもわたしは思わない。多すぎるルールのすべてに従うことは不可能であり、そして科学にルールは多すぎるからだ。悪いのは行き過ぎたおせっかいからルールを作った人々であり、リスペクトの名のもとにそれを生かし続けてきた人々だ。ルールは必ずしも守られないとわたしは知っているし、そのことをどうこういうつもりはない。

 

けれどそんな彼らがさもルールに忠実であるような顔をしているのは、そしてアリバイを屁理屈で塗り固めようとしているところを見るのは、わたしには少々気分が悪い。