ブラックボックス信仰の解剖書

科学の理論はしばしば、なにか巨大で尖ったものにたとえられる。研究を積み上げるいとなみとみなすのならば、科学は天を衝く山だ。はんたいに、研究を地面を掘るいとなみとみなすのならば、科学は地面にあけられた、油汗の吹き出すくらいに深い竪穴だ。

 

それらのたとえが物語るように、科学はひじょうに高遠、あるいは深遠だ。そのまさに先端部分、すなわち最後に積み上げられた石や、地底の最新のひっかき傷には、常人の手はとても届かない。そこで科学者たちがなにをしているのかなんて、わかっているのは本人だけだ。たとえば数学なら、最先端の定理はおおかた、前提条件も主張もわからない。いわんや、その証明方法をや。

 

だが、そのひじょうに遠い最先端でもたまに、使い方だけはわかるような定理が見つかることがある。どうしてそれが成り立つのかはぜんぜんわからないけれど、とりあえず、なにを言っているのかだけは理解できる定理が。そういう定理はわかりやすいから、じゅうぶんな汎用性があれば、便利なブラックボックスとしてあらゆるところで使われることになる。大学生のレポートで、あるいは一般向けの科学雑誌で。

 

ブラックボックスは便利だ。使うために、遠い理論の旅に出る必要はない。数学界隈には、中身を知らずに定理を使うことへの反発が根強くあるが、それでも先端の研究になれば、わたしたちはみなブラックボックスをつかう。別の山の山頂の、あるいはべつの穴の最深部の便利な定理を、わたしたちはただただ拝借できるのだ。

 

……とは、かならずしもいかないのが面倒なところだ。

 

こんな経験は、みなよくあるだろう。研究をしていると、ある定理が目に留まった。一見してそれは、わたしの求めるまさにそのもののようだ。便利そうなものが見つかったとわたしは喜んで、わたしの研究をそのブラックボックスに繋げないか検証する。検証の結果は、ダメ。たとえば、ソケットのかたちが違う、といった理由で。

 

だが依然としてその定理は便利そうだ。たしかに求めているそのものでこそないが、求めているものによく似ているから、ほぼ同じアイデアが要求にこたえてくれるはずなのだ。だからわたしは、そのブラックボックスをどうにか使おうと、外部端子をこねくり回す。

 

それでもダメなとき、わたしはブラックボックスをこじ開けて、中身の証明を読んでみる。そうすれば、ほんとうに使える箱なのかがわかるだろうと期待して。もし箱の中身が複雑怪奇なら、わたしはさじを投げるだろう。逆に、もし中身が思いのほか単純なら、わたしはそれを検証できるだろう。

 

さて、運よく中身が単純で、一部をいじれば、その箱はわたしの目的に使えると判明したとしよう。そして、わたしの目的が達されて、論文を書くことになったとしよう。そのときわたしの証明は、ブラックボックスの中身に似ているから、わたしはその定理の恩恵を受けたことにはなる。だが定理のブラックボックスとしての側面は、わたしに便利さという恩恵をもたらしてくれはしなかったのだ。

 

そんなわたしには、ブラックボックスの中身を書き換える作業が待っている。その作業は車輪の再発明だし、そのわりに面倒だから、できればやりたくはない。だが、やらなければならない。だいたい一緒だからよし、という非厳密な論理を、数学は許してくれないからだ。

 

さて、そんなつらい作業へと突き進むわたしは、どこで道を踏み外したのだろうか。あるいは、そもそもわたしの道は、車輪の再発明へとまっすぐにつながっていたのだろうか。わからない。だいたい、そもそもわたしは、そのブラックボックスもどきに感謝するべきだろう。直接は使えなかったとはいえ、わたしの研究を大幅にバイパスしてくれたのだから。

 

だがそれでも、つまらないものはつまらない。わたしはわたしの楽しみのために研究をしているから、つまらないことはしたくないのだ。だから、もしわたしに予防ができるとすれば。

 

どんなに便利に見えたとしても、そもそもブラックボックスをふんだんに使うような難しい研究は、やめておいたほうが身のためである。