それは文学か? ①

もっとも寛容に解釈すれば、文字のどんな羅列だって文学と呼ばれうるわけだが、実際のところわれわれはそう考えない。猿がタイプライターを叩いてできた文章をわれわれは文学とみなさないし(もっとも現代においては、そんな気まぐれな動物に頼るよりも、適当なコンピュータを用意して擬似乱数でも発生させる方が、はるかに上質なランダム列をはるかに効率的に得られるだろうが)、それどころか十分に意味の通るはずの説明書や契約書の類だって、なにか新奇の世界観をそういう形式で表現した文章を除けば、まったく文学と呼ばれることはないだろう。作者が文学だと考えればそれが文学だという向きもあるが、わたしの記憶がただしければ、ランダム列と思わしき文面を本と称して高値で国会図書館に引き取らせた誰かが、厳密にはその文学性をだれも否定できぬにもかかわらず、合法的な詐欺師に向けられる(多少はトーンダウンした)非難を受け取っていたはずだ。

 

ではなにが文学でなにが文学でないのかと問われれば、わたしはもちろん答えに窮する。数学者としての立場からすれば、前述した通り、文字のどんな羅列だって――もしかすれば、文字以外の媒体で作られたなにかだって――文学と認めざるを得ないだろう。すべてを厳密に定義せねばなにも始められぬのが数学であり、定義はいっさいの例外を許さない。そしてひとたびなにかが定義されれば、人間の天邪鬼は例外の構築に、常軌を逸してすべての利害を度外視した、ほとんど狂的な熱意を見せる。それならば数学は最初から、すべてを文学と認めておくほかはないというわけで、これすなわち、数学者的な態度は現実世界の感性の問題を解決する役には一切立たないという、言いつくされた事実の再発見に過ぎない。

 

だがあえて、こんな問いを立ててみることにしよう。はたして、そうだな、たとえば論文は文学であるか。この問いを、わたしは成立した問いだと仮定する。前述のとおりこれは命題論理の範疇では無意味な問いだが、まあ要するに、命題論理を飛び越えてしまえばいいだけの話だ。言い換えればわれわれは、論文とほかの文学との類似点と相違点を列挙し、そのどちらが大きいように思うかを比較すればよい。とはいえなにを論文と呼ぶかという問いにはなにを文学と呼ぶかという問いとまったく同一の問題があるし、なにを論文と呼ぶべきかについてわたしは大したイデオロギーを持たないから、あくまで論文の中身には立ち入らず、論文が外部からどう扱われるかをもって、かりそめの客観性を担保するべきだろう。

 

さて、ではそれはなにか……といったところで、疲れたので今日はおしまいにする。だが予告しておけば、わたしがいま考えていることは、文学とクライマックスはイコールではないが、論文と主定理はイコールだということだ。