娑婆への倫理

刑罰とは文字通り、体制による暴力行為である。そこで行われていることはれっきとした人権の制限であり、体制はひとを捕まえ、行動の自由を奪う。もっとも悪いケースでは、長期間にわたるかもしれない監禁行為ののちに、体制みずからの手でそのひとを殺す。拘留以降の個人の身に起こったことというミクロな事象のみに注目すれば、その行為を肯定できる倫理は存在しないだろう。というか、肯定するものをひとは倫理と呼ばないだろう。

 

とは言ったもののもちろん、この善悪判断には明確な穴がある。刑罰を単なる暴力としてのみ捉えるのでは、いささか見ている範囲が狭すぎるわけだ。法治国家において刑罰が存在する意味を考えるには、まず犯罪のことを考慮に入れなければならない。拘留以降の個人に訪れる悲劇は、冤罪のケースを除いてかならずそのひとのそれ以前とリンクしている。

 

そう考えると、ずいぶん印象も変わるだろう。拘留された個人の受ける罰はたしかに悲劇であり人権侵害だが、それはそのひとが以前、その罰を受けるのに値するだけのなにかをしたからだ。看過できない行為を働いたという事実とセットにされれば、刑罰という暴力の悲惨さは緩和される。彼らは体制の一方的な被害者なのでは決してなく、単にしかるべき報いを受けているだけなのだ、というわけだ。

 

自然法の多くもそうなっていることから類推するに、刑罰とは人類共通のシステムだろう。どんな行為にどれだけの罰を与えるのかは共同体によって異なるとはいえ、刑罰という概念じたいはどこにでもありふれている。そうなっている理由のひとつは、おそらく刑罰が最も効果的な治安維持のためのシステムだからだろう。けれどそれ以前の問題として、人間のある特質があらわれているようにわたしは思う。

 

さて。最初にわたしは、刑罰とは一方的な暴力だと主張した。刑罰の場で起こっていることだけをミクロに観測すれば、それは一方的な悲劇の生産行為だと。けれど実のところ、その視点はそんなに特殊なものでもないように思う。というか、特定のひとりの囚人だけを取り出して眺めた場合、わたしたちのほとんどに共通するきわめて普遍的な視線なのではないか、と。

 

どういうことか。特定の囚人が過去に犯した犯罪には、わたしたちのほぼ全員が無関係だ。わたしたちは彼の罪を知らず、彼の罪と一切の利害関係を持たない。わたしたちが彼に向けるはずの感情は無関心であり、彼の罪へ向けるはずの感情も同じで、すなわち彼の処遇について、わたしたちはなんら望むところを持たない。半日で娑婆に戻ろうが獄中で嬲り殺されようが、知ったことではない。

 

そしてそんなわたしたちがもし刑務所を訪れ、彼の状況を見たらどうなるか。目の前でいま行われている人権侵害以外に、わたしたちが理解できることはなにひとつないはずだ。

 

かくして目の前には暴力だけが残る。他人へと向けられる暴力をどう感じるかはひとそれぞれだが、倫理的な人間ならこう言うだろう。これは人権侵害であり、即刻中止すべきだ。彼がなぜここに囚われているのかは知らないが、どうせわたしには関係のないことだ。わたしが共感するのはこの暴力の悲惨さだけであり、だから一刻も早く彼は解放されるべきだ。倫理的な人間とは、社会の維持というあいまいかつ統計的な観点より目の前の悲劇のほうを優先する人間のことではないのか?

 

もしも全員がこう考えれば、刑罰なるシステムは成り立たない。刑務所は崩壊し、全員が娑婆の空気を吸い、そして治安は崩壊する。けれど現実は、そうなっていない。考えようによっては、不思議なことだ。

 

倫理性を自称する人間だらけであるはずのこの世の中が、倫理性の帰結を受け入れていないのだから。