残らない文章の物量

文章の練習のつもりで、わたしはこの日記を書いている。毎日書いているのはとにかく、量を書けるようになるためだ。それほど気合を入れて書いているわけではないから、おそらく質はそんなに良くない。けれど質というものはよく、量をこなした後からついてくると言われている。それが本当に正しいのかはさておき、信じて練習する価値はあると思っている。

 

とはいったものの、やはり質は大切な要素だ。こうして量を書いているうちにいつの間にか質が上がっているということをわたしは期待しているし、事実そうなってはいるとは信じている。信じてはいるけれど、やはり質を上げるということに関する苦手意識は拭い去れない。質を上げるための練習を、わたしはしていなかったからだ。

 

さて。最近別の件で、わたしは長めの文章を書いてみている。その文章は誰かに読んでもらうことを前提とした文章であり、つまり質を重視すべき文章であり、そして同時に、執筆時間の制約のない文章でもある。必然的にその場では、普段日記を書くときにはなかなかやらない作業が発生することになる。つまり、推敲、というやつだ。

 

やってみると推敲とは、やはりなかなかに残酷な作業だ。勢いで書いた初稿はとんでもない駄文で、とても多少の手直しでどうにかなるようなものではない。どうしようもないソースコードを見たソフトウェアエンジニアが既存のものを全部消して書き直したい衝動に駆られるように、わたしはわたしの文章をかなぐり捨てたいと思う。そして事実、ほとんど一から書き直している。

 

そう考えると、量なんて書いても仕方がないのかもしれない。勢いに任せて書いた文章は例外なく駄文で、最終的な原稿には一文字たりとも残らない。すべての文に役割があるのが良い文章の最低条件だが、物量を書くわたしが生成するのは役割のない文ばかりなのだ。そりゃあ、残るはずがないわけだ。

 

それならば最初から質を重視して、一発で上手くいくように書いた方がいい。そうできれば、とわたしは願う。

 

けれども執筆に、そんなうまい話はない。すくなくとも、わたしはそうできない。質だけにこだわっては、筆は全然進まないのだ。すべての文に役割を持たせなさい、それは結構。これから何を書くのかすらもおぼろげな状態で、役割なんてものが分かるならね。

 

だからわたしにはきっと、物量の無駄が必要なのだ。質の高い文章へと練り上げる前段階の、最終稿に残らない大量の文章の遺骸が。そうしないで済む方法はあるだろうと思ってはいるのだが、わたしはまだ、そんなうまい方法を見つけられない。それならばせめて、その骸だけは素早く生み出せるように。

 

わたしは、こうやって練習を続けようと思う。